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やさしいぬくもりが、ぽふ、と額を包み込み、そっと前髪を撫で上げてゆく。
髪のひとすじすら愛おしい、という想いを溢れんばかりに伝えるその仕草とともに、やわらかな旋律が、ぽつりぽつりと瞼に零れ落ちてくる。
――これは夢なのだと、自分はとうに、知っている。
だからどうか、もう少しだけ、覚めないで、と。
切なる祈りを捧げながら、胸が震えるほど懐かしい子守唄に、耳を澄ませる。さざめく心が、目を開けて相手の顔を確かめるのだ、と訴えかけてくるものの、重い瞼は、どういうわけか全く持ち上がらない。むしろ、ゆっくりと髪の上を往復するぬくもりに、再び意識が微睡みの淵を
……せめて、一目だけでも。
瞼の向こう、
(……冷た、い)
ひやりと額が濡れる感触に、たまらず目を開ける。夢の名残に、ぼんやりと何度か瞬きをしていると、すぐ近くから、はつらつとした声が降ってきた。
「あ、起きた? 気分はどう?」
真上から、自分の顔を覗き込んでいるのは――若草色の、大きな瞳。
人間だ、と咄嗟に半身を起こした結果、額と額がしたたかにぶつかった。ごつん、と鈍い音が鳴り、目から火花が散るような痛みが走る。その拍子に、何かがべしゃりと腹の辺りに落ちてきたような気がしたが、そんなことは一瞬で思考から吹き飛ぶほどの衝撃だった。
「いったぁ!」「痛っ」
口から飛び出た呻き声は、綺麗に重なった。額をさすりながら目線を上げた少女は、全く同じ格好をした自分を見て、ふふ、と親し気に表情を綻ばせる。
「あなたの頭、すっごく固いのね。額が割れるかと思った!」
数瞬を経てから、もしやこの子は自分に話しかけているのか、とようやく思い至り、まじまじと少女の顔を見つめる。
その表情も、こちらに注がれるまなざしも、今まで自分に向けられていたものとは、何かが違う。
(……そうだ。こんな風に、まっすぐにぼくを見てくれる人は、いなかった)
道端で微睡んでいて、ふと視線を感じて瞼を上げた時、相手は決まって自分から目を逸らしていた。
たとえ話しかけたとしても、皆ことごとく表情を強張らせ、こちらにぱっと背を向けて、逃げるように去っていくばかりで。
いつだって街の人々は、自分は〝違う〟のだと、目で、表情で、動作で訴えていた。――自分は、同じ
(それなのに、どうして?)
どうしてこの子は、自分をまっすぐに、見つめているのだろう。
……なぜ、自分に向かって、微笑みかけてくれるのだろう。
輝く若草の瞳が、戸惑ったように、しぱしぱと瞬く。――きらきらとまばゆいその双眸に映る自分の姿は、何一つ、変わっていないのに。
「え、ちょっと。どうして固まってるの? ほんとに頭が割れちゃった? ねえ、だいじょうぶ?」
あたたかい手が、有無を言わさず伸びてきて、額を隠す自分の掌をそっと取り去る。久方振りに触れた他人のぬくもりに、びくり、と小さく肩が跳ねた。
「少しだけ、赤くなってる? まあでも、これくらいならだいじょうぶだよ」
一応冷やしておく? と問うて、少女はこちらの腹の上から、湿った
「……あちゃあ。ごめん、衣が濡れちゃったね」
ちろりと、少女が赤い舌を覗かせる。くるくると移り変わるその表情の鮮やかさに、思わず見惚れていると。
「――レスタ? いったいどうしてるの、……あら」
戸口から顔を出した女性が、目を丸くする。なぜかその顔つきは、眼前の少女と不思議なほどに重なって見えた。
「よかった、目が覚めたのね! 具合はどう? 痛いところはない?」
駆け寄ってきた女性は、おもむろに屈み込んでから、ふわりと微笑みかけてきた。あたたかな掌が額にあてがわれ、熱はなさそうね、という呟きが、耳に届く。――その
気付けば、留めようもなく、瞳から熱い雫がつうっと零れ落ちていた。
「……もう、大丈夫よ」
やわらかな腕に包まれ、頭をぽんぽんと撫でられる。その感触に夢の名残がふと蘇り、胸が締め付けられたようにぎゅっと痛んだ。
もう顔も想い出せない、かつて自分を慈しんでくれた誰かを、
どうやら、自分はあの街を出て、別の
別の街、というものが存在しているのだと、自分はその時初めて知った。それまでの自分の世界そのものだったあの街は、抜け出してみれば、こんなにも呆気なく過去になるのだ、と。――きらめく若草の瞳を見つめながら、静かに想いを馳せる。
「ねえ、あなたの名は? 何て呼ばれてたの?」
「……わからない。覚えてないんだ。前に住んでいたところでは、誰もぼくの名前を呼ばなかったし」
「ふーん、じゃあ、皆でいい名を考えなくっちゃ! ねえおとうさん、わたしも一緒に考えていい?」
「ああ、もちろん。……じゃあ、誰がいちばんいい名を考えつくか、
「うわあ、楽しみ!」
はしゃぎ回るレスタの様子に、くすり、と思わず小さな笑みが零れた。目敏くその瞬間を見ていたらしいレスタは、ぱあっとお日さまのように、表情を明るくする。
「あっ、笑った!」
「本当だ。……お前さん、いい顔で笑うなあ」
レスタの父が、大きな手で、わしわしと髪を掻き混ぜる。その動きにつられて自分の頭がゆさゆさと左右に揺れるのを、レスタがきゃらきゃらとはしゃぎながら見つめていた。
きっとあの時、自分はようやく――笑い方を、想い出すことができたのだろう。
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