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――ひどくやさしい声に、名を呼ばれた気がした。
うっすらと目を開けると、どこかぼんやりとした視界の端で、ほの白い色彩が揺れた。再び微睡みの淵へ
「……おかあ、さん?」
重い瞼がとろりと下りてくるのに任せ、いつもの朝のように、あたたかい母の身体にすり寄ろうとしたところで――不意に、昨夜の出来事が、どうっと頭の中に流れ込んできた。
突然斬りかかってきた、
何か知らない言葉が聞こえて、一陣の風が吹き抜けたと思ったら、蠢く無数の影は、いつの間にかいなくなっていた。……そう、あの後、小刻みに身体を震わせる母から、助けを呼んできてほしいと頼まれたのだ。
不安でたまらなくて、一緒に行こうと訴えたのに――あまりにもやさしい声で、行きなさい、と告げられて。
透きとおるようなうつくしい微笑みに、なぜだか胸がざわめいて、懸命に手を伸ばした。けれども強い風に阻まれて、差し伸べた指先は、求めたぬくもりに届かない。
なおも近付こうともがくうちに、ふわっと身体が浮き上がった。あっと思う間もなく、母の笑顔が遠ざかっていって。
それから――……
『よかった、目が覚めたかね?』
耳馴れぬ響きに違和感を覚え、ふっと顔を上げる。――その声の主を認めるや否や、反射的に大きく飛びずさっていた。
『おや、どうしたんだい? ……ああ、怖がらせてしまったかな』
喉から、ぐるる、と威嚇の声が漏れる。腰を軽く浮かせ、ぐっと足元を踏み締めると、すべらかな硬い感触が右の前脚に返ってきた。その質感に、閃くように何かが脳裡を過ぎるが、今は眼前の相手から意識を逸らすことなどできない。
目の前にそびえ立つ、相手の姿は――母を襲った敵と、酷似していた。
二本の足で立ち、異なる言語を話す生き物。身につけているひらひらとした白いものは、昨日母を傷つけた敵のそれとは異なっているようだが、だからといって気を緩められるはずもない。
唸りながら敵とじわじわと距離を取り、横目でひそかに退路を探す。と、どこからか吹き込んできた風が、かすかな青草の香りを鼻先まで運んできた。
(……森の、におい)
瞬間、右前脚に握っていた硬いものを素早く口にくわえ、ぱっと弾かれたように駆け出した。
『これ、待ちなさい! 三日も寝込んでいたのに、急にそんな無茶を――』
背後で響く声を置き去りにして、風が呼ぶ方向へとひた走る。空が見えないことに面食らいながらも右に曲がれば、不意に白茶の遮蔽物が消え、今度こそ蒼穹が頭上に広がった。
まばゆいばかりに降り注ぐ陽射しに安堵したのも束の間、視界に飛び込んできた光景に、思わず脚が止まる。
(どっち? どっちに行けば、帰れるの?)
生い茂る大樹は忽然と姿を消し、草木や石の代わりに整然と立ち並ぶのは、色とりどりの、四角に近い奇妙な形の何か。
その巨大な物体の間に広がる、平たい石のようなものが均等に並べられた地面の上を行き交うのは――先程の敵と同じ、二本足で動く生き物の群れ。
『なに、この子。どうして四つん這いで歩いてるの?』『もしかして、神父様に引き取られた子じゃないか? ほら、森に住んでいたって話の』『神父様はどうされたのかしら?』『あれ、何をくわえているの?』
意味の分からない音の羅列とともに、こちらに近付いてくるその集団が、母を傷つけた、敵の姿と重なって。
気付けば、伸ばされた手を振り払うようにして、にょきにょきとそびえる二本足の隙間を縫って駆け出していた。周囲から次々に耳障りな声が上がり、鼓膜をキンと突き刺したが、あいにく今はそんなことに頓着していられない。
飛び交う悲鳴に顔をしかめつつ、いつになく重い四肢に鞭打って、青草の香りが示す方向へと走り続けた。
やがて二本足の気配が絶えた頃合いで、ようやく森の近くまで辿り着き――はっと目を見開いた瞬間、口からぽろりと角が零れ落ちた。
母から託された、大切な角を拾い上げることもできず、呆然と自失する。
――母と過ごした森は、見る影もなく、無残に焼け落ちていた。
(……どうして?)
昨日の夜は、嵐で大雨が降っていたはずだ。それなのになぜ、跡形もなく燃え尽きている? ……いや、そんなことよりも。
(おかあさん、は)
すぐにでも森の中に足を踏み入れたいのに、一刻も早く母を探さなければと思っているのに、震える四肢は言うことを聞いてくれない。
――おかあさんも、すぐに追いかけるわ。
――ね、百数えるうちに迎えに行くから、それまで薬草を探して待っていてちょうだい。
「……おかあ、さん」
――ありがとう。
「おかあさん!」
いくら大声で叫んでも、木々の屍が累々と横たわる森の奥から、返る応えはない。胸の底がすうっと凍えるような心地で、それでもひたすらに、呼び続けていると。
『……ここに、いたのかね』
ばっと振り返ると、息を切らした二本足の生き物が、すぐ後ろに立っていた。
さっき目が覚めた時に話しかけてきた相手だ、とかろうじて思考した瞬間、がばっと身体を抱え込まれた。咄嗟に眼前の白いものに噛みつくと、頭上でくぐもった呻き声が上がる。
『この森は、二日前に焼け落ちてしまったよ。ひどい、山火事だったそうだ。――可哀想に』
大きな掌にとん、とん、と背中を撫でられ、どこか母を想わせるその仕草に、胸がぎゅっと軋んだ。なにか熱い塊のようなものが身体の奥からせり上がってきて、ひく、と喉を震わせる。勝手に視界が滲み、生温い雫が後から後から溢れては、頬を伝っていった。
しゃくり上げながら母を呼ぶ自分の背を、相手は無言で、ずっとさすり続けていた。
泣き疲れて意識を失った自分を連れ帰ってくれた相手は、〝しんぷさま〟と呼ばれていた。〝れいはいどう〟という場所でこれから暮らすのだと告げた〝しんぷさま〟は、根気強く、自分に新たな言葉と作法を教えてくれた。
〝れいはいどう〟では、新たにレシュドという少年に引き合わされた。
おそらく自分より二つ三つほど年嵩だったレシュドは、〝しんぷさま〟が新入りにかかりきりだったのが気に入らなかったらしい。事あるごとに、『よつあしのけだもの』とか、『りゅうにそだてられた、いみごのくせに』と、こちらにはわからない言葉を投げつけては、楽しくてたまらない、と言わんばかりの歪んだ笑みを、口元に浮かべていたから。
ある日、レシュドと四つ脚で部屋の中を駆け回っていたら、レシュドが〝しんぷさま〟にこっぴどく叱られた。どうやら、彼が笑いながら口にした言葉がいけなかったらしいのだが、レシュドは「おまえのせいだ」とひどく怒っていた。
その頃には自分もそれなりに言葉を介するようになっていたのだが、それでもなぜ、レシュドに責められるのかはわからなかった。だからきっと、素直に疑問を口にしたのだと思う。
するとレシュドは、いつもの歪な笑みを浮かべて、こちらの手首を強く掴んできた。骨が軋むような痛みに呻き声が漏れ、肌身離さず握り締めていた白い角が、手からするりと滑り落ちる。
――決して、離してはだめよ。
母のやさしい声が、鮮やかに耳の奥で蘇った。
白い角に向かって、レシュドが屈み込む光景が、やけにゆっくりと、目に映って。
(それだけは、だめだ)
咄嗟に指先を伸ばし、まさに角を拾い上げんとしていたレシュドの手首を、ぐっと握り締める。――同時に、ぱき、と鈍い音が掌で鳴った。
気付けば、レシュドが甲高い悲鳴を上げていた。泣き叫び、床をのたうち回るようにして、全身で痛みを訴えている。何が起きたのか、と驚いた自分が、拾い上げた角を胸に抱いたまま手を差し伸べれば、レシュドは零れ落ちんばかりに目を見開いた。
「――こっちに来るな! だれか、助けて!」
バン、とけたたましい音を立てて扉が開き、〝しんぷさま〟が険しい顔で姿を現した。手が、手が、と泣き喚くレシュドを太い腕が抱え上げ、木の葉色の瞳がちらりとこちらを一瞥する。その視線の常にない厳しさに、身体がびくりと竦んだ。
「……何があった?」
「レシュド、手、つかむ。これ、おちた。レシュド、とる。ぼく、手、つかんだ」
たどたどしい答えに眉根を寄せ、〝しんぷさま〟は完全に黙り込んだ。
重苦しい空気に戸惑いながら、じっと二人を見上げると、響き渡る泣き声がいっそう強く、鼓膜を震わせた。
ややあってから、ここで大人しく待っていなさい、と短く告げた〝しんぷさま〟は、レシュドを抱えたまま背を向け、足早に部屋を後にした。
その一件以降、目に見えて二人の態度が変化した。
レシュドは一切こちらに近寄ってこなくなったし、あの歪んだ笑みを浮かべて言葉を投げつけてくることもなくなった。〝しんぷさま〟は、「きみは力がずいぶん強いから、けんかをしてはいけないよ」と告げた後、不安定な様子のレシュドにかかりきりになってしまった。
不思議なことに、寂しい、とは思わなかった。……常に身につけている白い角が、自分を見守っていてくれるような気が、していたから。
たった一つの形見をよすがに、数年の時が経ち――〝しんぷさま〟が病で突然他界したことで、自分を取り巻く環境はがらりと一変した。
次代の礼拝堂の管理人がやってくるや否や、自分は礼拝堂を去ることとなった。
その頃には自分が森で龍に育てられたという話は街中に広まっており、身元を引き受けてくれる者など誰もいなかった。ゆえにその日から住処はなくなり、常に寝床は露天だった。それでも風邪の一つも引かなかったのだから、本当に自分は身体が丈夫だったのだろう。
「ほら、あれだよ。森の中で、龍に育てられてたって噂の」「嘘でしょう、龍が人間を育てるわけないじゃない」「それが、まだ三つか四つの頃に、あのレシュドの手の骨を喧嘩で折ったって。狂暴なんだよ、獣の仔なんだから」「本当に? やだわ、怖い怖い」
深い森の中で過ごした夢のような日々は、二本足で歩くうちに、両手の使い方を、新たな言葉を習得するうちに、少しずつ、鱗が剥がれ落ちるように遠ざかっていった。
残飯を漁り、空腹と乾きを満たすことで一日が終わる。ただ日が昇り、日が沈む。毎日が、その繰り返しだった。
もはや過去の想い出すらおぼろげになった、ある日のこと。
道の端でうたた寝をしていたら、不意に数人の男に取り囲まれた。ぼんやりと顔を上げ、男たちが一様に浮かべた、歪んだ笑みを眺める。知らない顔だが、不思議と見覚えのある表情だった。
「こいつだろう、龍に育てられた忌み仔は」「ああ、本当だ。持ってるな」「人間の言葉がわかるのか? えらくぼんやりしてるじゃねえか」「おい、それをこっちに寄越しな」
男の一人が手を腰元に伸ばしてきた瞬間――頭の中で、ぱっと何かが弾けた。
もう顔も想い出せない誰かの、やさしい声が、そっと囁く。
……決して、離してはだめよ。
「いやだ」
きっぱりと跳ねつけ、伸ばされた指先を立ち上がりざまに払いのけると、男たちはさっと気色ばんだ。
「何だと?
男の言葉は、駆け出した自分の身体が当たったことで、中途で途切れた。おい、と背後で怒鳴り声が響き、五人分の足音が追いかけてくる。
右に曲がって裏道に入り、腐りかけたまま置き去りになっている箱を踏み台に、勢いよく隣家の屋根に跳び上がる。喚く男たちの声を取り残し、そのまま家の屋根から屋根へと跳び移りながら駆けていくと、そこここから悲鳴が上がった。
「――忌み仔がまた暴れているわ! 誰か、早く! ……助けて!」
叫び声を上げた、名も知らぬ住民の目に鮮明に浮かぶ、純粋な恐怖の色。
その瞳を目にした瞬間、もはやこの街に自分の居場所はどこにもないのだということを、どうしようもなくはっきりと、悟った。
そっと目を伏せ、――深く、息を吐く。
醒めたまなざしを路地に向け、人通りの少ない場所を目掛けて、勢いよく屋根から跳び下りる。ひときわ盛大な悲鳴が上がる中、逃げ惑う人々の合間を縫って、何かを振り払うようにひた走った。
これでよかったんだ、という奇妙な安堵と開放感を覚えながら、そのまま一人、静かに街を後にした。
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