4-7
7
暗く沈んだ森が、季節外れの嵐にざわめくその日。
ひた、と背後まで忍び寄っていた終焉は、満を持して――鋭い牙を、振りかざした。
(……妙な匂いがする)
久方振りの雨が降りしきる夜半、鼻先を掠めたかすかな違和感に、ぱちりと瞼が上がる。むせかえるような土と緑の薫りは、嗅ぎ慣れたものに相違ない。……だが、吹き荒れる風に混ざる、複数の獣の匂いは何だ?
訝しみつつ目を凝らせば、大地を穿つ雨にけぶる風景の中に、木々に紛れて揺らめく大量の影が浮かび上がった。どうやらすでに囲まれているらしい、という苦々しい確信に、ゆら、と
(この仔を連れて逃げるだけの時間はない。……ならば、迎え撃つ)
瞬時に判断を下したものの、懐ですやすやと眠る我が仔に警告する間もなく、謎の集団はこちらを目掛けて一斉に動き出した。敵襲に身構えたその刹那、轟音とともに大地を貫いた閃光が、迫り来る影の正体を照らし出す。
(相も変わらず、つまらぬ小細工を……)
種々様々な獣の皮と匂いを身に纏い、地を這うように近付いてくるのは――忘れられるはずもない、
知らず唸り声が零れた直後、驟雨のごとく降り注いできた矢を、無造作に尾で打ち落とす。この悪天候の中、なぜよりにもよって弓など使うのか、という疑問がちらりと頭を過ぎった。
が、次の瞬間立ち込めた激烈な刺激臭に、一切合切が脳髄から吹き飛んだ。目鼻を刺し貫く凶悪な臭気に、たまらず顔を背ける。途端に、ぐらり、と視界が傾いだ。
(……毒、か?)
気付いた時には、四肢の先がぴりぴりと痺れ始めていた。とっさに懐の我が仔を覆い隠すように姿勢を変えるも、身体から力がみるみるうちに抜けていく。このままではじきに動けなくなる、といや増す焦燥が、思考を束の間空転させた。
(何の毒だ? 龍に効く毒など、あるはずが――いや、そんなことはどうでもいい)
たとえ身体の自由が奪われようと、魔法が使えなくなるわけではない。この臭気ごと、人間どもを吹き飛ばしてくれる、と風魔法を発動させようとした、その瞬間。
「――――――――っ!!」
頭頂部の角に、雷に打たれたような凄まじい痛みが走った。意に反して喉から絶叫がほとばしり、全身が小刻みに痙攣する。
異変にようやく目を覚ました我が仔が、懐から懸命に何かを訴えかけてくるが、その言葉に耳を傾ける余裕すらない。返答はおろか、のた打つ身体で我が仔を押し潰さぬようにするだけで、精一杯だった。
「……はっ、流石の切れ味だ」
歪む視界の中、夜気に滲むような
割れるような痛みを放つ頭に、なおも毒を注ぎ込むかのような声音が、固く閉じた記憶の蓋を、嘲弄とともにこじ開ける。
「どうだ? 同族の牙に、切り刻まれる気分は」
カッと、全身の血が沸騰するような激情が込み上げる。――一度火が付けば、
天を焦がす黒炎。立ち昇る煤と煙。響き渡る怒号と苦悶の声。
点々と横たわった
ぬらりと纏わりつく死臭と血風を振り切るように、声の限り名前を呼んだ。そして、ようやく見つけた。……見つけてしまった。
銀色の血に塗れ、冷たくなっていた我が仔の、変わり果てた姿を。
あの瞬間の、シンとした絶望が、空虚が――やがて訪れた痛哭が、憤激が、狂気が蘇り、身体中を劫火のごとく燃やし尽くしていく。
……ああ、ようやくこの時が、訪れた。
ついに復讐を果たさんとばかりに、積年の憎悪を、ふつふつと滾る憤懣を、咆哮とともに撒き散らした。
『――
翠色の光が弾け、悲鳴のごとき風鳴りとともに、大気が渦巻く。
地面から砂礫を巻き上げ、幾千もの刃と化した旋風が、周囲に群がっていた人間を、臭気もろとも斬り裂いてゆく。そこここで上がる叫喚も、為すすべもなく吹き荒ぶ暴風に呑み込まれ、瞬くうちに彼方へと押し流されていった。
やがて周囲の気配が絶えた頃合いで、猛烈な痛みに耐えながら、懐の我が仔に安否を尋ねる。未だに戻らぬ視覚が、麻痺したままの嗅覚が、本当にこの仔は無事なのか、といっそう不安を募らせていた。
「ううん、だいじょうぶだよ。――ねえ、おかあさん。どうかしたの? どこかいたいの?」
「……いいえ、平気よ。あなたが何ともないなら、よかった」
つとめて平静な声で返すも、聡い我が仔は、表情にか響きにか滲んだ痛苦を、鋭敏に感じ取ったらしい。今にも泣き出しそうな震える声で、それでもひたむきに問うてきた。
「でも、……おかあさん、すごくいたそうだよ。ぼくに、なにかできる?」
目には映らずとも、いま我が仔がどんな表情をしているのかは、手に取るようにわかった。
どうか哀しまないで、と頭を撫でる代わりに、あたたかな身体に頬を寄せる。魔法のようなそのぬくもりが、あれほど全身を焦がしていた炎を、静かに埋み火へと変えてゆく。
「ええ、もちろん。……それじゃあ一つ、お願いがあるの」
なあに、と懸命に訴えるいたいけな声を、その面影を、心に焼きつけながら。
ごめんね、という呟きを呑み下し、決意とともに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「近くの街まで行って、助けを呼んできてもらえるかしら。悪い人に襲われた、って言えば大丈夫よ」
でも、おかあさんは? いっしょにいこうよ、となおも案じる我が仔を安堵させるように、微笑みかける。
「おかあさんも、すぐに追いかけるわ。……ね、百数えるうちに迎えに行くから、それまで薬草を探して待っていてちょうだい」
できることがある、と悟ってようやく頷いた我が仔の健気さに、ひどく胸が締め付けられた。
「――ありがとう」
どうか、あなたの道行きに、幾万の星の
切なる祈りとともに、おもむろに罅の入った角に、尾を伸ばす。
一瞬だけ息を詰め――根元近くに巻きつけた尾に、ぐっと力を込めた。同時に鈍い音を立て、角が頭頂部から完全に切り離される。口から零れかけた呻き声を必死に噛み殺し、我が仔に
「……お守りよ、持っていきなさい。決して、離してはだめよ」
頭が両断されたかのような痛みに耐えながら、最後に強く、念を押す。
自分はもはや、動けない。それならばどうか、この仔にだけは、生き延びてほしいから。
だから、この身にわずかな魔力が残るうちに。
最後の魔法を、発動させる。
「お行きなさい――〝
ずっと呼べなかったその名を、やわらかな風が、吹き上げるようにさらっていって――やがて静かに、視界が闇に包まれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます