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 暗く沈んだ森が、季節外れの嵐にざわめくその日。

 ひた、と背後まで忍び寄っていた終焉は、満を持して――鋭い牙を、振りかざした。



(……妙な匂いがする)


 久方振りの雨が降りしきる夜半、鼻先を掠めたかすかな違和感に、ぱちりと瞼が上がる。むせかえるような土と緑の薫りは、嗅ぎ慣れたものに相違ない。……だが、吹き荒れる風に混ざる、は何だ?


 訝しみつつ目を凝らせば、大地を穿つ雨にけぶる風景の中に、木々に紛れて揺らめく大量の影が浮かび上がった。どうやらすでに囲まれているらしい、という苦々しい確信に、ゆら、とたてがみが逆立つ。


(この仔を連れて逃げるだけの時間はない。……ならば、迎え撃つ)


 瞬時に判断を下したものの、懐ですやすやと眠る我が仔に警告する間もなく、謎の集団はこちらを目掛けて一斉に動き出した。敵襲に身構えたその刹那、轟音とともに大地を貫いた閃光が、迫り来る影の正体を照らし出す。


(相も変わらず、つまらぬ小細工を……)


 種々様々な獣の皮と匂いを身に纏い、地を這うように近付いてくるのは――忘れられるはずもない、襲撃者にんげんの姿。


 知らず唸り声が零れた直後、驟雨のごとく降り注いできた矢を、無造作に尾で打ち落とす。この悪天候の中、なぜよりにもよって弓など使うのか、という疑問がちらりと頭を過ぎった。

 が、次の瞬間立ち込めた激烈な刺激臭に、一切合切が脳髄から吹き飛んだ。目鼻を刺し貫く凶悪な臭気に、たまらず顔を背ける。途端に、ぐらり、と視界が傾いだ。

 

(……毒、か?)


 気付いた時には、四肢の先がぴりぴりと痺れ始めていた。とっさに懐の我が仔を覆い隠すように姿勢を変えるも、身体から力がみるみるうちに抜けていく。このままではじきに動けなくなる、といや増す焦燥が、思考を束の間空転させた。


(何の毒だ? 龍に効く毒など、あるはずが――いや、そんなことはどうでもいい)


 たとえ身体の自由が奪われようと、魔法が使えなくなるわけではない。この臭気ごと、人間どもを吹き飛ばしてくれる、と風魔法を発動させようとした、その瞬間。


「――――――――っ!!」


 頭頂部の角に、雷に打たれたような凄まじい痛みが走った。意に反して喉から絶叫がほとばしり、全身が小刻みに痙攣する。

 異変にようやく目を覚ました我が仔が、懐から懸命に何かを訴えかけてくるが、その言葉に耳を傾ける余裕すらない。返答はおろか、のた打つ身体で我が仔を押し潰さぬようにするだけで、精一杯だった。


「……はっ、流石の切れ味だ」


 歪む視界の中、夜気に滲むようなにび色の姿が揺れる。覚えのあるその色彩に、眠らせたはずの記憶が、ごとり、と音を立てて蠢き始めた。

 割れるような痛みを放つ頭に、なおも毒を注ぎ込むかのような声音が、固く閉じた記憶の蓋を、嘲弄とともにこじ開ける。



「どうだ? に、切り刻まれる気分は」



 カッと、全身の血が沸騰するような激情が込み上げる。――一度火が付けば、たがが外れてしまえば、あとはもう、一瞬だった。


 天を焦がす黒炎。立ち昇る煤と煙。響き渡る怒号と苦悶の声。

 点々と横たわった同胞ともの影が、駆ける己の傍らで、爆ぜる炎の中に沈んでいって。

 ぬらりと纏わりつく死臭と血風を振り切るように、声の限り名前を呼んだ。そして、ようやく見つけた。……見つけてしまった。


 銀色の血に塗れ、冷たくなっていた我が仔の、変わり果てた姿を。


 あの瞬間の、シンとした絶望が、空虚が――やがて訪れた痛哭が、憤激が、狂気が蘇り、身体中を劫火のごとく燃やし尽くしていく。


 ……ああ、ようやくこの時が、訪れた。


 ついに復讐を果たさんとばかりに、積年の憎悪を、ふつふつと滾る憤懣を、咆哮とともに撒き散らした。



『――風塵きえうせろ



 翠色の光が弾け、悲鳴のごとき風鳴りとともに、大気が渦巻く。

 地面から砂礫を巻き上げ、幾千もの刃と化した旋風が、周囲に群がっていた人間を、臭気もろとも斬り裂いてゆく。そこここで上がる叫喚も、為すすべもなく吹き荒ぶ暴風に呑み込まれ、瞬くうちに彼方へと押し流されていった。


 やがて周囲の気配が絶えた頃合いで、猛烈な痛みに耐えながら、懐の我が仔に安否を尋ねる。未だに戻らぬ視覚が、麻痺したままの嗅覚が、本当にこの仔は無事なのか、といっそう不安を募らせていた。


「ううん、だいじょうぶだよ。――ねえ、おかあさん。どうかしたの? どこかいたいの?」

「……いいえ、平気よ。あなたが何ともないなら、よかった」


 つとめて平静な声で返すも、聡い我が仔は、表情にか響きにか滲んだ痛苦を、鋭敏に感じ取ったらしい。今にも泣き出しそうな震える声で、それでもひたむきに問うてきた。


「でも、……おかあさん、すごくいたそうだよ。ぼくに、なにかできる?」


 目には映らずとも、いま我が仔がどんな表情をしているのかは、手に取るようにわかった。

 どうか哀しまないで、と頭を撫でる代わりに、あたたかな身体に頬を寄せる。魔法のようなそのぬくもりが、あれほど全身を焦がしていた炎を、静かに埋み火へと変えてゆく。


「ええ、もちろん。……それじゃあ一つ、お願いがあるの」


 なあに、と懸命に訴えるいたいけな声を、その面影を、心に焼きつけながら。

 ごめんね、という呟きを呑み下し、決意とともに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「近くの街まで行って、助けを呼んできてもらえるかしら。悪い人に襲われた、って言えば大丈夫よ」


 でも、おかあさんは? いっしょにいこうよ、となおも案じる我が仔を安堵させるように、微笑みかける。


「おかあさんも、すぐに追いかけるわ。……ね、百数えるうちに迎えに行くから、それまで薬草を探して待っていてちょうだい」


 できることがある、と悟ってようやく頷いた我が仔の健気さに、ひどく胸が締め付けられた。かなしさに軋む心を、滲む視界を気取られぬよう瞼を下ろし、そっとなめらかな額にくちづけを落とす。


「――ありがとう」


 どうか、あなたの道行きに、幾万の星の祝福ひかりが降り注ぎますように。


 切なる祈りとともに、おもむろに罅の入った角に、尾を伸ばす。

 一瞬だけ息を詰め――根元近くに巻きつけた尾に、ぐっと力を込めた。同時に鈍い音を立て、角が頭頂部から完全に切り離される。口から零れかけた呻き声を必死に噛み殺し、我が仔にしかと、折り取った角を握らせた。


「……お守りよ、持っていきなさい。決して、離してはだめよ」


 頭が両断されたかのような痛みに耐えながら、最後に強く、念を押す。

 自分はもはや、動けない。それならばどうか、この仔にだけは、生き延びてほしいから。


 だから、この身にわずかな魔力が残るうちに。

 最後の魔法を、発動させる。



「お行きなさい――〝希望の仔クロム〟」



 ずっと呼べなかったその名を、やわらかな風が、吹き上げるようにさらっていって――やがて静かに、視界が闇に包まれた。

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