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 背後を取られた不覚を悔やむ間もなく、アーキェルはばっと身を翻した。



 ――咄嗟に振り仰いだ視界に映ったのは、聳え立つ大樹と、遥かな蒼穹。



(いない? ……いや、どこだ?)


 視線を素早く左右に巡らせ、今にも襲い掛かってくるであろう敵の姿を探す。しかし、黄金の毛並みを逆立て、牙を剥く龍の巨体は、どこにも見当たらない。


 確かに何者かの声が聞こえたはずなのに、と困惑したのも束の間、アーキェルとレスタは、申し合わせたようにそろそろと視線を下ろした。



「……だあれ? もしかして、シェリエさまを探してるの?」



 シェリエさまなら、いまお出かけしてるよ――と、愛らしい声で続けたのは、まだいとけない、小さな龍だった。


(どうしてすぐに、仲間を呼ばないんだ? ……もしかして、おれたちが侵入者にんげんだと、気付いていないのか?)


 それどころか、むしろ自分たちを竜族なかまだと思っているかのような仔龍の物言いで、アーキェルはある可能性に思い至った。



「……ねえ、アーキェル。この子、もしかして」



 おそらく同じ疑問を抱いたのであろうレスタが、そっと耳打ちしてくる。続きを引き取るように、アーキェルもレスタの耳元に囁き返した。


 仔龍の、冬の天頂の色をした双眸を見遣りながら。



「ああ。――おれたちの姿が、ほとんど見えてないんじゃないか?」



 言わずもがなではあるが、竜族の身体は人間に比べて遥かに巨大だ。ゆえに二人は当然の帰結として、上からの視線を遮るために、外套マントを頭から被せていた。


 もちろん外套の生地には限りがあるので、二人の足元は光魔法で隠されていない。てっきり人間の脚を直接目にしたがために、仔龍に気付かれたのかと考えたが、どうやらそういうわけでもないようだ。



(……まだ幼獣こどもだとしても、ずいぶん小さいな)



 竜族の子どもなど、当然アーキェルはこれまで目にしたことがない。しかし、眼前にちょこんと佇む仔龍は、いささか不健康そうな身体つきをしているように思われた。


 輝くような黄金の毛並みにはほど遠い、ほとんど白に近い、つやのない細い白金のたてがみ。同じ白系統の鬣でも、白銀の少女の内側から輝くような髪色とは、太陽と蛍の光ほどに受ける印象が異なる。


(竜族といえば黄金色の身体だ、と領主様も言っていたけれど――竜族の長以外にも、白い身体の龍がいるんだな)


 冬の空のような薄青の瞳をしげしげと見つめていると、隣から肘でこつりと小突かれた。


「ねえ、どうする? わたしもアーキェルも気配に気付かなかったくらいだから、敵意はなさそうだけど……」


 珍しく歯切れが悪いレスタに答えるよりも先に、仔龍が不思議そうにまるい目を瞬かせて尋ねてきた。



「あれ? ……何だか、草みたいなふしぎな匂いがする。ねえ、これって何の匂い?」



 ぎくり、とアーキェルが身体を強張らせた瞬間、レスタは何を思ったのかいきなりその場にしゃがみ込んだ。はずみで外套がばさりと翻りそうになり、慌ててアーキェルもレスタに倣う。



「これはね、香草の匂いよ。……わたしたちはついさっき、シェリエさまのお使いで、人間に化けてお外に出かけていたの」

「ふーん、そうなんだ。ぼく、にんげんの姿になれるのは、シェリエさまだけなんだと思ってた! ねえねえ、お外のこと、たくさん教えてよ!」



 外套の下で、レスタと無言で視線を交わす。――人間の姿に化けることができる唯一の龍といえば、昨日戦ったあの竜姫に違いあるまい。


 ……となれば、この仔龍が言うところの『シェリエ』は、竜族の長の名前だ!



「いいよ、お話してあげる。……あれ? ねえあなた、怪我してるの?」



 仔龍がぱたぱたと小さな翼をはためかせた拍子に、ちらりと胸部に刻まれた古い傷跡が覗いた。思わず、といった調子でレスタが声を掛けると、仔龍はぱちり、と一つ瞬き、冬空の瞳をじっとこちらに向けた。



「……ぼくの病気のこと、しらないの?」



 先程までとは打って変わった、静かな声音に、まずい、とレスタのローブの裾を引っ張る。しかしレスタは、アーキェルの警告にも気付いていないような真剣な面持ちで、ゆっくりと口を開いた。


「もちろん、知ってるに決まってるじゃない。……わたしたち、シェリエさまに頼まれて、あなたの病気を治すためのお薬を探しに行っていたのよ!」


 ほらこれ、とレスタは衣の懐から薬草を取り出し、仔龍の鼻先に突き出す。危ないぞ、と腕を引いても、頑としてレスタは動かなかった。


「ほんとうに? シェリエさまが、ぼくのために……?」

「そうよ。だから、少しだけ傷を見せて」


 張り詰めた表情をしたレスタが、仔龍の方に、そっと身を乗り出そうとした瞬間。




「――――その子に触れるな!」




 光魔法を編み込んだ外套が、文字通り目と鼻の先で、氷柱つららに紙のごとく貫かれる。直後にキン、と澄んだ音が響き、アーキェルが振り上げた白剣と交叉した氷柱の欠片が、頬を掠めて大地に落ちた。



「……また、お前たちか」



 周囲に漂う、真冬のような極寒の冷気すら生温く思えるほどの、絶対零度のまなざしの持ち主は――柳眉を逆立てた、白銀の少女だった。


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