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「出立は二日後、か。……ずいぶん、悠長な話だな」
竜族がいつ大挙して攻めてくるかわからない状況ならば、てっきり今すぐシュヴァイン霊峰に向かえ、と言われるものかと思っていた。アーキェルが気を揉みながらそう呟くと、レスタは小首を傾げた。
「そう? わたしはかなり早いな、と思ったけど。……だって、これからクロムの街に追加で兵を派遣するんだったら、領城の警護体制も組み直さないといけないでしょ? おまけに指揮官を誰にするかとか、食糧の手配とか、色々ありそうじゃない?」
きょろきょろと周囲に視線を巡らせながら告げるレスタは、明らかに上の空ながらも律儀に話に付き合ってくれた。なじみ深いその様子に苦笑しつつ、アーキェルは声をかけた。
「レスタ。……城の書庫が気になってるんだろ。行ってきたら?」
「あ、ごめん。やっぱりばれてた?」
ぺろりと舌を出すレスタに、気付かないわけないだろ、と返す。
――執務室を後にする前に、何か訊いておきたいことはあるか、と領主に問われた時から、薄々想像はついていたのだ。
当然のように、書庫はありますか? と目を輝かせて尋ねたレスタは、だよね、と恥ずかしそうに笑った。
「やっぱり、アーキェルにはお見通しかぁ。……じゃあ早速行ってくるね、ありがとう!」
それに、アーキェルもそろそろ身体を動かしたいでしょう? としたり顔で告げ、颯爽と背を翻したレスタは、一秒でも待ちきれないというように、軽やかに広い回廊を駆けてゆく。
その背を見送った後、アーキェルは一つ息を吐き。
(……慣れないことをしたから、肩が凝ったな)
ふ、と前髪を揺らした風の薫りに誘われるように、柱廊沿いに広がる鮮やかな緑に目を留めた。
* * *
(……なんだ? どこへ行く気だ?)
見知らぬ黒髪の少年が、何気なく庭に足を踏み入れる瞬間を見咎めた警護兵は、気配を忍ばせて後を追った。
(迷子になった謁見者か? ――はたまた、人に化けた竜族か?)
入り組んだ構造を持つこの城で、現在地を見失う訪問者も決して少なくはない。しかし、警護兵は別の可能性を危惧していた。
すなわち、少年は迷子などではなく、人間の拠点たるこの城を偵察に来た、竜族かもしれぬ、と。
(だが、対竜結界を易々と突破できるとも思えない。……すると、ただの田舎者か?)
単に物珍しいのか、はたまた庭の見事さに感心しているのか、少年は時折立ち止まっては足元の草花にしげしげと視線を向ける。
その様子は単なる謁見者が庭の景観に誘われて散策をしているだけのように思えたが、間もなく少年はあっさりと庭を抜けた。息を殺し、警護兵も少年の後に続く。
庭に沿うように造られた回廊をしばし歩き、このままどこかに向かうのかと思いきや、不意に少年は柱廊の間を抜けた。周囲を窺うように見回しながら、次第に人気のない方向へと進んでいく少年に、警護兵は不審の念をいっそう募らせる。
やがて少年は、普段は使われることがほとんどない、第四訓練場に辿り着いた。
――ここに至って、警護兵ははっきりと戸惑いを抱いた。
(こいつの目的はなんだ? もしや盗人、……いや、この場所には盗るものなんて何もないぞ)
武器すら置いていない場所だが、これから物色でもするつもりか? はたまた、単に道に迷っただけか? ――否、それならばなぜ、人目を憚るような行動を取っていた?
警備兵が声を掛けるか逡巡している間に、訓練場の中央で少年は立ち止まった。そして、ゆっくりとした動きで腰の辺りに手を伸ばし――
音もなく、それを抜き放った。
木陰から少年の姿を窺っていた警備兵は、やはり竜族が少年に化けていたわけではなかったのだ、と確信する。
竜族は、武器を持たない。自らの身体こそが最強の武器である竜族にとっては、端から無用の長物にしかならないからだ。
――黒水晶のような、澄んだ夜空の輝きを宿した、剣。
少年が持つそれは、警備兵が腰に佩いている剣とは決定的に異なっていた。
まず、刀身の形状が違う。鋼を叩いて強度を増した形跡などまるでない、槍の穂先をそのまま伸ばしたような奇妙な形だ。棒状というよりも、細く伸ばした円錐形に近いだろうか。
それに、あの刃の色。何の素材を使えばあんな色が出るのか、想像もつかない。
警備兵がまじまじと観察している間に、少年は手にしたそれをす、と水平に構えた。そして水が流れるように、静かに動き始める。
上、右、下、左、突き、返し、という何ということのない動きの繰り返しが、次第に速さを増していく。にもかかわらず、剣閃の音が全く聞こえない。
長年訓練を積んできた警備兵の耳が、この程度の距離で、風を切る刃の音を聞き逃すはずがない。……そのはずなのに、何も聞こえない。
しかも、少年の背には気負いも緊張も全くない。いとも易々と、まるで子供が匙を回して遊んでいるような気楽さで、手の中のそれを自在に操っている。
――まるで、風と戯れてでもいるかのように。
(……馬鹿な、)
警備兵のこめかみを、冷たい汗が伝う。得体の知れない何かと対峙しているような畏怖を一瞬抱いた自分を恥じるように、静かに手を動かした。
――水魔法。ごく簡単な、水滴を対象の上から落とすものだ。
(そうだ、こんな所で剣を振り回すな、と言ってやらねば)
少年の首筋目掛けて、冷たい雫が落ちる、そのはずだった。
「なっ!?」
――僅か一瞥すらくれず、少年が振り上げた刃で水滴を両断していなければ。
(なぜ切れる? それこそ魔法で相殺でもしなければ、間に合うはずがない)
少年が、水魔法が発動する前兆を感じ取っている様子はなかった。つまり、警備兵の水魔法が発動し、雫が具現化した瞬間に、凄まじい速さで反応したのだ。
そんな芸当ができるのか、と警備兵が動揺しているうちに、目の前にふっと影が射す。
「なんだ、水魔法なんて使ってくるから誰かと思った。……あ、しまった。レスタに敬語を使えって言われてたんだった。――って、おじさん! 大丈夫ですか?」
思わず腰を抜かした警備兵に、慌てたように目を瞬かせて手を差し伸べる少年は、先の超人的な技量の持ち主とは思えない、ごく平凡な雰囲気を湛えていた。
差し出された手を握ったまま、黙って頷く警備兵に、少年は決まり悪そうに問いかけた。
「勝手に場所を使ってすみませんでした。……あの、俺、食堂に行きたいんですけど、ここからどう行けばいいか教えてくれませんか?」
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