4-11
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篠突く雨は、まるでセナを悼んでいるかのように、三日にわたって降り続けた。
天が泣いているその間、レスタと自分は外に出ることもなく、つとめていつも通りにふるまいながら、家事の手伝いに励んでいた。
けれど、動かしていたはずの手が止まるたび、心はセナの寝台の傍らに引き戻されて。
目を閉じれば、まなうらにセナの姿がくっきりと蘇って。
あの日からずっと、眠りも浅くて――だからその夜、寝室の扉の隙間から忍び込んできた足音と囁きに、はたと目を覚ましたのだった。
「本当に、こんな夜更けに行って大丈夫なの?」
「ああ。雨も、多少なりともましになってきたからな。それに、鉱道が崩れちまったら、洒落にならないだろ? 万一そんなことになりゃ、みんな路頭に迷っちまう」
自分たちを起こさないように、という配慮以上のものが、極限まで潜められた響きの中に、込められている気がして。……常にない緊迫感が、交わされる言葉の節々からも、漂っていて。
どくどくと騒ぐ鼓動をなだめつつ、一言も聞き漏らすまいと、懸命に耳を澄ませた。
「気を付けて。……路頭に迷うよりも、あなたが無事でいてくれた方がいいわ」
「泣かせるね。――まあ、様子見だけだから心配するな。大丈夫だ」
行ってくる、とレスタの父が告げた後、ぎぃ、と表の扉が軋んで、外で吹き荒ぶ風雨の咆哮が一瞬だけ大きくなった。すぐさま扉が閉まり、細い悲鳴のような風鳴りが遠ざかると、椅子を引くかすかな音が暗闇の中に響いたきり、人が動く気配は絶えた。
屋根に打ちつける雨音と、木々のざわめきと、自分とレスタのひそやかな息遣いだけが、シンとした夜の
ひやりと湿った掛布を握り締めたまま、しばし黙考して――――やがて、そろりと身体を起こした。
降りしきる雨が、瞬くうちに全身を濡らすのも構わず、一心に鉱山を目指した。
ぬかるんだ道は、小川でも流れているのではないかというありさまで、何度も泥に足を取られながらも、懸命に前へと進む。
(……もう、誰かを喪うのは、いやだ)
幸いなことに、鉱山の灯は絶えておらず、遠くで滲むようにぼんやりと揺らめいていた。時折強く吹き抜ける風に身体を煽られつつ、
(大丈夫だ。……きっと、大丈夫だ)
森で育ったらしい自分にとって、わずかな光を頼りに行動することは造作もない。夜目は利く方だし、根や岩だらけの森の方がよほど足元がおぼつかなかったはずだ。だから、夜道を行く恐怖はない。……その、はずなのに。
――心配するな。大丈夫だ。
レスタの父が言い置いた台詞が、耳の奥でこだまして離れない。そんなことがあるわけがないと頭ではわかっているのに、どうしても、セナが最期に遺した言葉と、重なって。
――だいじょうぶだよ。ふたりとも、しんぱいしないで。
……そもそもレスタの父は、鉱山の様子を見に行っているだけだ。病にかかっていたセナとは、状況だって全く違うのに。
(そうだ。早く迎えに行って、危ないから一緒に帰ろう、って言わなくちゃ)
心の奥底でどろりと渦巻く不安を押し込めて、嫌な予感を振り切るように、ひた走った。駆けて、駆けて――ようやく鉱山の入り口が視認できるところまで辿り着いた瞬間、小さな違和感を覚える。
(……あれ?)
灯りに照らされて作業をしている影の数が、あまりにも多いのだ。
自分の知る限り、鉱山に関する決定権を持つのは、レスタの父を含めて五人。もし全員が来ていたとしても、人数は五人になるはずだ。それなのに、揺らめく人影は、ゆうに十人分はあるように思えた。
もしも自分がもう少し冷静だったら、その時点で異常に気付くことができたのかもしれない。だが、その時の自分は、一刻も早く、レスタの父の無事を確かめたかったのだ。
「お父さん! ねえ、早く、帰ろ……」
手を振りながら駆け寄ると、レスタの父は弾かれたように振り返り、今まで見たことがないほど厳しい形相で、鋭く叫んだ。
「来るな、アーキェル! 早く戻れ!」
大喝に、ぴたりと足が止まる。戸惑ううちに、その場にいた全員の視線が一斉にこちらを向いて――はっと、息を呑んだ。
(……だれ? この人たち)
場の中心に立つのは、黒い布で顔の大部分を覆い、鈍く光るものを手にした、見慣れぬ男。その周囲に佇む、黒ずくめの恰好をした集団が、まさに袋の中に詰め込もうとしていたのは――。
「……どうして、黒鋼石を袋に入れてるの?」
黒鋼石を採るためには、山の奥深くに分け入らなければならない。山を掘るのが大変な作業だということは、土と汗に塗れて帰ってくるレスタの父を見ていれば、訊かずとも分かる。
おまけに黒鋼石は加工に手がかかるため、一つ磨くにも数日かかるし、大きなものであれば数月を要することもある。そんな努力の結晶を、なぜ住民でもない男たちが、袋に収めている?
(まるで、レスタの絵本に出てくる、とうぞくみたいだ)
何気なくその考えが過ぎった瞬間、ちり、と頭の奥で火花が閃くように、直感した。
――まるで、じゃない。この人たちは。
「おい、そこの
そうだろう? と嘲る声音で、鈍く光るものを、これ見よがしに自分の方に向ける相手。……その鋭い切っ先は、家の
「おい、その子にそれを向けるのを止めろ! 黒鋼石ならいくらでもくれてやる!」
びりり、と大気が震えるほどの怒声に、けれども相手は眉一つ動かさない。それどころか、口の利き方がなってねえなあ、と低い声で呟き、レスタの父の方に、つかつかと歩み寄っていく。
「ああ? 聞こえねえなあ、もう一回言ってくれねえか?」
「……石なら、好きなだけ持っていけ」
「何を偉そうに命令してるんだ、てめえ」
「これは失敬。……子供に刃を向けるような卑怯者には、似つかわしい口調だと思ったものでな」
次の瞬間、躊躇なく振るわれた拳に、レスタの父の身体が
「来るな、アーキェル!」
「おとうさんに、ひどいことするな!!」
首元を捕まえようとする相手の腕を間一髪で潜り抜け、両手を広げてレスタの父の前に立ちはだかる。そのままきっと睨み据えれば、なぜだか相手はくっ、くっ、と歪んだ笑い声を漏らした。
「馬鹿な小童だな。お前の親父が、どうして逃げろと言ったのか、まるで理解しちゃいねえ」
ひゅ、と音を立てて、雨よりも冷たい白刃が、首に突きつけられる。下手な真似をしたらこのちびの首が飛ぶぞ、と相手が告げると、こちらに駆け寄ろうとしていた大人たちは、射殺すような凄まじい目つきを男に向けたまま、ぴたりと動きを止めた。
「さあ、どうする? 俺たちは別に、お前さんたちを皆殺しにしたって構わないんだぜ。なんせここの連中は、故郷からのあぶれ者ばかりなんだろう? 手にかけたところで、お尋ね者にもなりゃしない」
高笑いとともに足を払われて、反応する間もなく泥の中に倒れ込む。衝撃に咳き込み、顔を振ってすかさず立ち上がろうとすれば、額のほんの半寸先に、鈍色の切っ先がひたと据えられていた。
「……ん? こいつ、何を持ってんだ?」
楽しげだった相手の声音が、不意にいぶかしげなものに変わる。その視線を追えば、倒れた拍子に翻った自分の衣の端から、ギルじいさまが作ってくれた黒い背負い袋が覗いているのがわかった。とっさに隠そうとするも遅く、相手の長い指が、無造作に背負い袋を掴み取る。
「こりゃ何だ? えらい長物だな、ひょっとして隠し武器か?」
中身の感触を確かめ、開け口の紐を解こうとした相手に飛びかかった瞬間、額に灼けつくような鋭い痛みが走った。つうっと熱いものが皮膚を伝う感触を、奥歯を食いしばってどうにかやり過ごす。
そのままさらに一歩踏み込み、指先が背負い袋を掠めたその時、突き出された袋の中身が腹にどすんとめり込んだ。束の間白く染まった意識が、掻き消えそうになるのをどうにか堪え――相手が引こうとした袋を、ぐっと握り締める。
(……いたい。こわい。だけど――絶対に、渡さない)
――もう、これ以上、誰も傷付けさせない。
そう強く願った瞬間、不意に――無数の星が弾けたようなまばゆい光が、黒い袋の中から
(な、に……?)
目の前で、周囲で、誰かが何かを叫んでいる。だけど、何を言っているのか聞き取れないまま、喧騒がみるみるうちに遠ざかり――白い光に、全身を包み込まれる。
意識が途切れる直前に、懐かしい誰かが、そっと耳元に囁きかけてくれた気がした。
目を覚ました時、レスタはぼろぼろ泣いていた。
アーキェルまでいなくなるかと思った、と眉を吊り上げた後、レスタは急にしおれた花のように顔をくしゃくしゃにして、「よかった」と「いなくならないで」を、嗚咽交じりに何度も繰り返した。
心配かけてごめんね、ぼくはいなくならないよ、と告げて、抱き着いてきたレスタの背をぽんぽんと撫でながら、静かに決意を口にする。
「ぼく、もっと強くなる」
「……どう、して?」
「強くなったら、街のみんなを護れるから。それに、強い人がいると思ったら、悪い人もやってこなくなるでしょ?」
「……っく、そう、かも」
「それで、いっぱい〝たんれん〟して、すごく強くなったら、いちばん強い『りゅう』に会って、けんかを止めてくれませんか、ってお願いするんだ。もしかしたら、けんかになるかもしれないけど――本当に強くなったら、けんかになったとしても、相手をけがさせなくてすむでしょう?」
「そう、だね」
「『りゅう』とのけんかがなくなったら、もっとみんなの暮らしがよくなるって、前にお父さんも言ってたから。だから、うんと強くなって、みんなを護って、けんかをなくすんだ!」
それは、あまりにも単純な考えだったのだと、今なら自分もわかるけれど。
それでも
「うん。――アーキェルなら、できるよ!」
――あなたを信じている、と。
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