第五章
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「――風よ、我が翼となれ」
レスタが言霊を囁いたその瞬間、まばゆい光の奔流が渦巻き――部屋の壁と天井が、すさまじい轟音とともに吹き飛んだことを、アーキェルは眇めた目の端でかろうじて認識した。
レスタに狙いを定めていた領主が、舌打ちしながら標的を変え、落下してきた瓦礫を魔法で打ち砕く。ほんの束の間、ロルムがこちらにちら、と気遣わしげな視線を投げかけてきたような気がしたものの、その真意を見極める前に、二人の姿は降り注ぐ天井の残骸の向こうに消えた。
(……参ったな)
領主に謁見するに際して、黒剣は入り口の兵士に預けたままだ。この機に乗じて取り返そうにも、行く手には領主とロルムの二人がいる。そもそも丸腰では、この瓦礫の雨を搔い潜れそうにない――とアーキェルは頭の片隅を冷静に回転させつつ、身体を素早く躍らせた。
現在、この部屋で最も手近で安全だと思しき場所――領主の執務机の下へと滑り込み、身体を縮こめる。直後に、先程までアーキェルが立っていた空間を巨大な石礫が押し潰し、床が砕ける鈍い音とともに、全身を小刻みに揺らすような衝撃が襲ってきた。
机の天板が、頭上でミシミシと軋む音に肝を冷やしながら、崩落が止む瞬間を祈るように待ち続ける。やがて地鳴りのごとき振動が鎮まると、遠くから聞こえてくるかすかな怒号を背景に、語気の荒いやり取りが間近で交わされていることに気が付いた。
「――ですが、あの少年をこのまま捨て置くのですか?」
「構わん。どうせ瓦礫の下敷きにでもなったのだろうが、自業自得というものだ。そんなことよりも、あの扉が塞がったのが痛いな……。ひょっとすると結界も崩れたかもしれぬ、まったく傍迷惑な連中だ!」
思ったよりも近くで、領主が苛立ちもあらわに瓦礫を蹴飛ばす音が響いた。
どうやら二人とも無事だったらしい、とひそかに安堵していると、領主が慌ただしく部屋を出て行く気配があった。続いて、おそらくロルムと思しき足音が、逡巡するように一瞬立ち止まり――ややあってから、主を追って駆け去っていく。
部屋の中に一人、瓦礫とともに取り残されたアーキェルは、ふう、と深く息を吐いた。
(何とか助かって、よかったけど……さあ、どうやってここから出るかな)
領主は焦ってどこかに向かったようだが、いったん状況が落ち着けば、クロムの街のことを思い出すに違いない。レスタに城を壊され、憤慨した領主がクロムの街に留まる兵士たちにどのような命を下すかは、想像に難くなかった。
試しとばかりに、目の前の瓦礫をこれでもかと蹴りつける。――足の裏が痛むばかりで、行く手を阻む石礫は微動だにしなかった。
溜息を吐き、領主の机の下でどうにか身体の向きを変える。反対側を眺めても、紫檀の木目が目に入るばかりで、視界が塞がれていることに変わりはない。仮にこの板を蹴飛ばしたところで、半壊状態の机が崩れ落ちてくるのが関の山だろう、という結論に辿り着かざるを得なかった。
(……こういう時、魔法が使えたらな……)
今ほど、魔法が使えないことを悔やんだことはない。しかし、できないことを嘆いていても仕方がない、とほどなくしてアーキェルは気持ちを切り替え、何とか事態を打破する方法を模索することにした。
(考えろ。……どうすればいい?)
おそらく城の人々は、安否確認と復旧で大わらわのはずだ。この部屋から領主とロルムがすでに脱出している以上、助けが来るとは考えがたい。もし救援の可能性があるとすれば、その相手はレスタをおいて他にいないが、当のレスタも一朝一夕に帰って来るとは思えなかった。……と、なれば。
(自力で脱出するしかない。……他に何か、見落としていることはないか?)
そこでふと、領主の言葉が頭を過ぎる。――あの扉が塞がったのが痛いな。
今しがた瓦礫に埋もれてしまったばかりの執務室だが、領主とロルムは元々の入り口から出て行ったはずだ。……つまり、この部屋のどこかに、他にも扉があるということか?
さらに深く思考を進めるうちに、ぱっと閃くように思い至る。――すさまじい重量の崩落に耐えた、頑丈に過ぎる紫檀の机。落下物が天板に衝突した時に響いた、高い金属音。
……何よりも、アーキェルが身体の向きを変えることができるほど広い空間を、机の下に有していること自体が、そもそもおかしいのだ。
目を凝らして、天板を、背面の木目を検分する。しかし机の隅々まで手を伸ばしても、妙なところは見つからなかった。
(――だとすれば、後はここしかないはずだ)
祈るような想いで、自分が身を縮めている床の上を探る。……足元にもない。浮かせた腰の下にもない。焦燥に駆られ始めたその時、指先が硬いものを掠める感触があった。
(……見つけた!)
すぐさまそれを強く押し込むと、かちり、と何かが噛み合う音とともに、突然床が斜めに傾いた。驚く間もなく身体が暗闇に投げ出され、硬い段差のようなものに腰をしたたかに打ちつける。
「痛った……」
腰をさすりながら、周囲に視線を巡らせる。しかし頭上からほのかに射し込む光で照らされた場所以外は、完全な暗闇に閉ざされていて、何も見えなかった。
不意に、レスタの言葉が脳裡を過ぎる。――この城、何かありそうだね。
あの時剣呑な笑みを浮かべたレスタは、部屋に二人きりであったにもかかわらず、他聞を憚るように、アーキェルにそっと耳打ちをしたのだ。
『書庫を歩いてる時に、途中から足音の反響の仕方が変わったのよ。試しに風魔法で確かめようと思ったんだけど、魔法避けがあったから止めておいた。――多分、地下に広い空間があるんじゃないかな? どう、きな臭いでしょ?』
領主の執務室の机の下に、隠されていた秘密の空間への扉。
どう考えても、その秘密はろくなものではないだろう、と確信を抱きながら――アーキェルは、底知れぬ暗闇の奥を見据えた。
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