第41話 家出の終着点

 自分のこれからの人生みたいに、目的地も決めず電車を乗り継いできた俺は、やっとその足を駅のホームへと下ろした。

 場所のせいなのか、それとも雨雲も俺と同じで随分と遠い距離を移動したのか、あれだけ激しく降っていた雨はいつの間にか止んでいた。

 つんと鼻腔を撫でる雨の匂いの中には、昼間とは違う夜の香りも混ざっていて、それが何となく、旅行に行ったあの夜のことを彷彿させる。

 

 何もかもから逃げるように、思い出を振り払うように、俺はずっと電車に乗ってあの家から背を向けてきたのに、結局自分の心は、まだ彼女の隣にいることを望んでいるのだろう。一人で生きていこうと家出を決意したはずなのに、本当に情けない話しだ。

 

 俺はそんなことを思い自嘲じみたため息をつくと、ゆっくりと右足を踏み出して改札へと向かう。

 ぎりぎりに飛び乗ったのが終電だったというのもあるのだろう。ホームにも改札にも乗客はほとんど見当たらず、駅員は俺が改札から出るのを見届けると、ガラガラと音をたててシャッターを下ろし始めた。

 長旅で疲れ切った表情を浮かべて、ただぼんやりとその様子を見ていた俺は、思い出したように再び足を動かした。

 

 雨音は今頃怒ってるのかな、それとも……

 

 あの家を飛び出した時、一瞬だけ見えてしまった、泣き崩れる雨音の姿が瞼の裏に浮かんでしまい、俺は痛みを堪えるように右手で胸元を押さえた。

 ドクドクと痛みを伴って流れ出る血液は、きっと心のほうも同じだろう。俺はそれぐらい……自分にとって大切だった人を傷つけて、逃げてしまったのだ。


「もう……手遅れか」

 

 駅を出て、真夜中の色に染まる街へと足を下ろしながら、俺はぼそりと呟いた。運悪くちょうど踏み出した場所には水たまりがあって、ボロボロの俺のスニーカーは、まるで手放してきたものをもう一度集めるかのように水を吸う。

「くそッ」と俺は舌打ち混じりに声を漏らすと、それを断ち切るように右足を蹴り上げた。そして乾いた地面に足を下ろした、その時だった。

 視界の隅に、人影のようなものが映った。


「あきら……くん?」

 

 その声にハッとして顔を上げると、俺がいる場所からほんの数歩先、濡れたアスファルトの上に雨音が立っていた。


「……」

 

 まるで幻でも見ているかのように、呆然と立ち尽くしている雨音。

 おそらく、傘もささずにずっと俺のことを探していたのだろう。長い髪も着ている服もびしょ濡れになっていて、足元を見ると濡れた土のせいで泥だらけになっていた。

 両目が真っ赤になって少し腫れているのも合わせて、その姿を見た瞬間、思わず胸の奥がカッと熱くなる。自分の中で、たしかに何かが繋がったような、そんな瞬間だった。


「戻って……きてくれたの?」

 

 今にも泣き出しそうな震える声で尋ねてくる雨音に、俺は気まずくなって顔を逸らす。

 あれだけ勢いよく飛び出して、新幹線まで乗ったはずが、あろうことか途中で下車をして引き返してしまったのだ。


 ……もちろん、雨音に会うために。

 

 黙ったままありとあらゆる言い訳を考えていると、いつものようにどうやらそれが答えになってしまったようで、雨音は目に涙をためながらゆっくりと近づいてくる。


「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」

 

 誰もいない駅前で、雨音は勢いよく俺のことを抱きしめてくると、何度も何度も同じ言葉を口にする。

 濡れた服を通して確かに伝わってくる彼女の温もりが、冷たくなっていた自分の心にまで熱を灯す。

 それが何だか目元までこみ上げてきそうになった俺は、誤魔化すように小さく咳払いをした。そしてーー


「……俺のほうこそ、ごめん」


 聞こえるか聞こえないかのような囁く声でそう言うと、雨音はハッと驚いたような表情を浮かべて俺の顔を見た。

 そしてすぐにまた、ポロポロと大粒の涙を流す。


「泣きすぎだろ……」

 

 照れ隠しのつりもで俺が呆れた口調でそう言えば、雨音は「だって……」と少し拗ねたような声を漏らす。


「わたし……もう彰くんに会えないって……会う資格なんかないって……だから……」

 

 ひくひくと鼻を啜りながら、込み上げてくる気持ちをまとまりのない言葉で必死になって伝えようとする雨音。

 年上のくせに、いつもは俺のことをからかってくるくせに、その姿はまるで、迷子になっていた女の子のようだ。

 

 彼女は手放しかけた繋がりをもう二度と離さないとするかのように、俺の背中に回した両腕にぎゅっと力を込める。

 いつもの俺なら恥ずかしがって、そんな彼女をすぐに引き離すのだが、さすがにこの時ばかりはできなかった。いや、離したくなかった。


「……」

 

 俺は覚悟を決めるようにゴクリと唾を飲み込むと、下ろしていた両腕をそっと上げて、そしてゆっくりと雨音の背中に回そうとした。……が、再び静かに下ろした。

 

 俺にそんな資格が与えられるのは、きっともう少し先のことだろう……

 

 いつまでも自分の首元で泣き続けている雨音の横顔を見つめながら、俺はそんなことを思った。

 だから今の俺は、その代わりに言うのだ。


「ただいま」とーー


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