第19話 もしも二度目が

「あつ……」

 

 拭けども拭けども流れてくる額の汗を、首にかけたタオルで拭いながら、俺は絶望感丸出しの声で呟く。

 頭上から降り注ぐのは灼熱の陽光。それを浴びて今にも干からびたクラゲみたいになりそうな自分とは違い、しゃがみ込んでいる俺の視界には、陽の光をたっぷりと浴びて元気に育っている雑草たち。


「ってかコイツら育ち過ぎだろ」

 

 ブチンと勢いよく目の前の雑草をむしり取りながら、今度は殺気めいた声で呟いてしまう。

 雨音には嫌々ながらも庭掃除をやるなんて言ってしまったけれど、あの時の自分を今は思いっきり殴りたい気分だ。

 そんな怒りの感情をさらに沸騰させてくるかのように容赦なく照りつける夏の太陽を、俺は顔を上げると目を細めて睨みつける。その瞬間、視界に雨音が貸してくれた帽子のつばがチラリと映った。


「……なんで麦わら帽子なんだよ」

 

 ため息と一緒にそんな言葉も吐き出すと、俺はふと視線を自分の姿に落とした。Tシャツに短パン、それに麦わら帽子って……これじゃあまるで虫取り少年みたいじゃねーか。


「くそ……アイツにバッタでも投げつけてやろうか」

 

 むしり取った雑草にバッタがくっついているのを見つけて、俺は思わずそんなことをぼそりと呟く。よく見ると親子なのかそれともパートナーなのか、バッタの背中にはもう一匹小さなバッタが乗っていることに気付いた。

 俺は右手でそっと捕まえると、二匹が離れ離れにならないように静かに地面の上へと降ろす。


「はぁ……」


 一向に終わる気配のない雑草むしりに、もはやため息と汗しか出てこない。家出を試みた人間が実は隣の家で草むしりをしているとか、何の罰ゲームだよこれ。

 そんなことを思うと、俺は再び自嘲じみたため息をついてしまう。


 もう誰とも関わるつもりなんてなかったのに……


 力強く地面を蹴って遠ざかっていく二匹のバッタを見つめながら、俺は心の中でぼそりと呟いた。

 父親の人生に乗りかかって生きていることが嫌で、せめて何か自分にできることはないかと思い、俺は家事を覚えた。

 見知らぬ赤の他人と形だけの家族になることが嫌で、俺はあの家を出ることを決意した。

 誰かと繋がりを持つということは、それだけ煩わしいことが増えるということだ。抱えなくてもいい面倒なことや嫌なこと、それに裏切られることだってある。

 だったらいっそ家族も友達も知り合いもいない方が、ずっと自由に生きていくことができる。そう思ったからこそ、俺はあの家を飛び出したのだ。それなのに、何故か俺はまだこうやって雨音と……


「おーい! そこの虫取り少年!」


 突然俺の思考を遮るようにからっとした明るい声が耳に届いた。顔を上げると、同じように白いタオルを首にかけた雨音がリビングの窓を開けて立っていた。その手にはなぜかオレンジ色のチューペットが握られている。


「……誰が虫取り少年だよ」


 俺は不機嫌な声でぼそりと呟くと雨音の顔を睨んだ。すると彼女は特に気にする様子もなく、「ちょっと休憩しよっか」と窓際に腰を下ろし、隣の空いているスペースを右手で軽く叩く。横に座れということらしい。

 俺は小さくため息を吐き出すと、すでにぐっしょりと濡れているタオルで額を拭いてから雨音の方へと向かう。頭上を見上げると太陽もやっと空の頂点を過ぎ去ったようで、窓際はほんの少しだけ日陰になっていた。


「随分と綺麗になったね! さすが彰くん」


 俺が隣に座ると、雨音がさっそく嬉しそうな声で言ってきた。その視線の先には、今朝見た時よりも随分と見通しが良くなった庭が広がっている。


「……もう二度としないからな」


 俺はだらりと両足を庭へと伸ばしながら疲労感たっぷりの声で答える。すると雨音はそんな俺を見てクスクスと笑うと、手に持っていたチューペットをぱきんと割って片方を差し出してきた。


「はい、ご褒美」


「……」


 随分と安上がりだな、と皮肉を漏らしてから受け取れば、「君はほんとに口が悪いなぁ」と雨音がわざとらしく唇を尖らす。けれどすぐにニコリと笑った。


「けどそんなとこも含めて君は可愛いんだけどね」


「可愛いって……」


 雨音の言葉に、今度は俺がむっとした表情を浮かべる。いくら俺の方が年下でまだ中学生といっても、可愛いと言われて喜ぶ男子はいない。

 そんなことを思いながら目を細めていると、「そういうとこだよ」と雨音はじゃれるように俺の頬を人差し指で突ついてきた。もちろん俺は、「やめろよ」と言ってすぐにその指を払いのける。そして顔を背けると、恥ずかしさを誤魔化すようにチューペットに口をつけた。


「これだけ頑張った彰くんには、今夜きっとステキなことが起こるよ」


「……何だよその意味深な言い方。また変なことでも企んでんじゃないだろうな?」


思わずチューペットから口を離した俺はそんな言葉を漏らすと、雨音のほうをチラリと横目で睨んだ。

 すると彼女は「へへッ」といつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。……コイツ、ぜったいなんか企んでるだろ。


「あのな……先に言っとくけど俺が寝てる時に突然ベッドに潜り込んできたり、風呂に入ってる時に急に扉を開けてくるとかなしだからな」


「ひどいなー、あれは彰くんが『ボディーソープがない!』って大声で叫んでたから持っていってあげたんでしょ」


「いやまあそれはそうだけど……」


 ……だからって何でそのまま一緒に風呂に入ろうとしてきたんだよ。


 一瞬そんな反論が頭に浮かんだが、それと同時に脱衣所で服を脱ごうとしていた雨音の姿まで浮かんでしまい、俺は慌てて首を振る。

 もちろん俺は雨音の暴走を全力で阻止したので、2人で一緒に風呂に入るなんてふしだらなことはしていない。

 が、あの時チラリと見えてしまった彼女の下着が、実は俺が選んだやつだったという余計な記憶はなかなか消えてくれないのでやっかいだ。

 雨音の隣に座りながらもつい余計なことを考えてしまった俺は、そのせいで熱くなってしまった身体を少しでも冷まそうと再びチューペットに口をつける。ついでに動揺してしまった心も落ち着かせようと大きく息を吸った時、雨音がぼそりと口を開いた。


「二度目があるといいんだけどなぁ」


 ぼんやりと空を眺めながら呟く雨音。俺はそんな彼女に呆れた視線と言葉を送る。


「は? 何言ってんだよ。今度は自分で取りに行くからあるわけねーだろ」


「違うよ。そっちの話じゃなくて、またこうやって彰くんと一緒にこの家を綺麗にできるかなってことだよ」


「……」


 早とちりしたせいで思わず黙り込んでしまった自分を見て、雨音はクスクスと愉快そうに喉を鳴らす。

 そして視線を庭の方へと向けると、その瞳を柔らかくそっと細めた。


「またあるといいね」


 まるで風が囁くような声で、雨音は静かに言った。

 その言葉を聞いた俺は、思わず彼女の顔から視線を逸らしてしまう。そして同じように黙ったまま、庭の方をただじっと見つめる。


 またはない。


 そうはっきりと言い切ることが、なぜか今の自分にはできなかった。

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