第8話 家出の事情

 俺はもともと父親と二人暮らしだった。

 

 母親のことは覚えていない。というより、顔も知らない。

 知っていることといえば、母親は昔から身体が弱く、俺が幼い頃に病気で亡くなったということぐらいだ。だから俺が家族と聞いて思い浮かぶのは父親のことで、実際に血の繋がっている人間というのもこの人ぐらいしか知らない。

 

 ただ、そんな繋がりがあるからと言って世の中すべての家族が仲が良いとは限らない。

 

 俺の父親は仕事が忙しい為、基本的に家にいることが少なかった。たまに家に居たとしてもいつも機嫌は悪いし、息子のことは邪魔者扱いしてくるので、俺としてはできれば一緒に居たくはない存在だ。

 けれど他の家庭の事情なんて知らないし、幼い頃からそんな環境で育った自分にとっては、これが当たり前なのだと諦めて受け入れてきた。

 それに、父親といる時は窮屈で居心地が悪かったが、普段家では一人でいることの方が多く、自由に過ごすことができたのでそこだけは助かっていた。

 父親も俺のことを邪険に扱ってくるとはいえ、さすがに暴力までは振るってくることはなかったので、自分が自立できるようになるまではこの環境でも我慢して続けていこうと思っていたのだ。

 

 でもそんな生活が変わってしまったのは、俺が中学生になった年の冬のこと。

 ある日珍しく早くに帰ってきた父親が、唐突にこう告げたのだ。


――再婚する。


 その言葉自体は知っていたけれども、父親に言われた直後、一瞬何の話しなのかまったくわからなかった。


「……は?」

 

 やっと冷静になった頭が言葉の意味を理解した時、口からこぼれ落ちた声はそれだけだった。いや、それしか言えなかった。

 黙ったまま驚いている自分に、父親はそれ以上何も説明することはなく、俺に背を向けるとそこで会話を終わらせてしまった。


 それから1ヶ月も経たないうちに俺の知らないところで再婚の話しは進んでいき、冬休みに入った頃には俺は住み慣れていた土地を捨てて、再婚相手が住んでいたというあの家に引っ越してきたのだ。

 ただでさえ気難しい父親との二人暮らしで肩身の狭い思いをしてきたというのに、それが知らない人間と一緒に住むとなると息苦しさは倍増どころではなかった。

 それどころか、新しく俺の母親となった人間には小学生の子供がいたのだ。しかも、三人。

 今まで母親という存在も、兄妹という関係も知らなかった自分にとってそれはまさに地獄のような環境だった。

だから俺は父親も含めて極力家族の誰とも関わらないようにして過ごしてきた。

 家にいる時はずっと自分の部屋に閉じこもり、食事も夜遅くに一人で食べるか誰かいる時は部屋で食べるようにしていた。もちろんそんな自分のことを父親は良くは思っておらず、母親も直接話したことはないけれど、きっと同じような気持ちを抱いているに違いないだろう。


 けれど、そんなこと別にどうでも良かった。


 突然慣れ親しんだ場所を奪われ、数少なかった友達も奪われた自分にとって、あんなやつらに何を思われようが知ったこっちゃない。

 それにどうせまた傷つくぐらいなら俺は人との繋がりなんてもういらないし、一人で生きていくほうがずっと楽だと思った。

 煩わしい関係なんて築いたところで、百害あって一利なし。

 だから俺はあの家から……


「……くそッ」


 嫌なことを思い出してしまい、俺は思わず声を漏らしてしまう。そしてむしゃくしゃした感情を胸の内に抱いたままベッドから立ち上がると、そっと部屋を出た。

 

 やっぱり俺はあの家から離れるべきだ。心理的にも、そして物理的にも。


 もしかしたらこの家のどこかにスマホが隠されているかもしれないと思った俺は、部屋を出てすぐ目の前にある階段へと向かった。 

 手すりを握って上を見上げると、夏なのに妙に冷たい空気が流れている感じがする空間がチラリと見える。

 俺は小さく唾を飲み込むと、雨音がいないとわかっていながらも慎重な足取りで階段を上がっていく。ギシギシと軋む音が、耳障りなほどやけに大きく聞こえてしまう。

 階段を上りきると、目の前には扉が三つ現れた。廊下を挟んで右側に二つ。そして反対側に一つだ。たぶん右奥にある扉の部屋が、昨日雨音が「入ってはいけない」と言っていた部屋なのだろう。


「……」


 俺はチラリと後ろを振り返り、玄関の方を見下ろす。今の時点でこの家に自分しかいないのは間違いないはずだ。つまり、俺が何をしようと雨音にバレることはない……はず。

 そんなことを思うと、俺は再びゆっくりと右足を前へと踏み出した。ミシっと静かな空間に自分の足音だけが響く。


 どうして雨音はあの部屋に入るなと言ってきたのだろう?


 昨日出会ったばかりの赤の他人である俺を一人家に残しておきながら、それでもこの部屋にだけは入るなと忠告してきた雨音。

 何でもオープンマインドの彼女の性格から考えて(とは言ってもまだ詳しくは知らないが)、わざわざ条件の一つにしてまで部屋に入るなと忠告してきたところをみると、あそこにはよっぽど見られたくないものがあるのだろう。


「まさか……死体とか?」

 

 はっと鼻で笑いながら冗談のつもりで呟いたが、不気味な静けさのせいか、本当にそうだったらどうしようかと一瞬不安になる。さすがにあっけらかんとした雨音のあの性格でそんな恐ろしいことが隠されているとは考えにくいが……


「……」

 

 俺は扉の前に立つと、覚悟を決めるようにゴクリと唾を飲み込む。そしてもう一度だけ階段の方を見て誰もいないことを確認すると、右手をゆっくりとドアノブの方へと伸ばした。

 大丈夫、バレることはない。それにもし本当にヤバイことが隠されているのなら、すぐにでもこの家から逃げ出す必要がある。その確認も含めて俺はこの部屋の中を確かめる必要があるのだ。

 そんなことを自分の心に言い聞かせながらドアノブを握りしめると、肌に触れた金属がやけに冷たく感じてしまい余計不気味さが増す。じとりと背中に滲む嫌な汗と、雨音に対する多少の罪悪感も心の奥底で感じながら、俺は意を決してドアノブを回した。


「……あれ?」

 

 ガチャガチャと音を立てるドアノブは、どれだけ力を込めても思うように回らない。どうやら、鍵が掛かっているようだ。


「何だよ……」

 

 拍子抜けしてしまった俺は思わず声を漏らすと、ドアノブを握っていた右手をそっと離した。鍵が掛かっているのならおぞましいものが隠されていたとしても見ることはないが、この部屋に何があるのか余計に気になってしまう。

 そんなことを思いつつもこれ以上どうすることも出来ないので、俺は諦めて後ろを振り返る。そして反対側にある扉を見つめた。

 

 ……あの部屋にも鍵が掛かっているのか?

 

 俺は右足を踏み出すと、その扉へとゆっくりと近づく。同じ形をしたドアノブを握りしめて回してみれば、今度はスムーズに扉が開いた。


「……書斎?」

 

 目の前に現れたのは、まるで映画やドラマにでも出てきそうな立派な書斎だった。

 入り口入って左手には壁一面を覆う大きな本棚と、その中を埋め尽くす洋書の数々。そして本棚と一体式になったデスクが置かれている。

 それと向かい合うように反対側の壁際にはアンティーク風のチェストが置かれていて、どの家具もシックな黒色で統一されているためか、どこか重々しい空気が漂っている。

 扉の真正面にある窓もぶ厚いカーテンで閉め切られているせいで、この部屋だけまるで世界からぽつんと切り離されて隔離されているみたいだ。


「……雨音の父親の部屋なのか?」


 きょろきょろと辺りを見回しながら、俺はそんなことをぼそりと呟く。

 それにしても不思議だ。いくら両親が海外で過ごしているからと言っても、人が住んでいる家でこんなにも放置される部屋ってあるものなのか? これじゃあまるで時間まで止まってるみたいだ……

 本棚に積もった埃を見つめながらそんなことを思っていると、それでもちゃんと時間は流れていることを気付かせるかのように、壁に掛かっている振り子時計が鳴った。

 その音に一瞬ビクリと肩を震わせた俺は、別に誰も見ていないのに、怖がってしまったことを誤魔化すように咳払いをして部屋の扉の方へと踵を返す。なんだかあまり居心地の良い空間ではない。


「もしかしてアイツ……本当に俺のスマホ持って行ったのかな?」


 部屋から出て扉を閉めると俺は唸るように声を漏らした。この家のどこかに隠されているならまだ逃げ出すことはできるけれど、もしも持ち出されているならそうはいかない。早いとこ見つかることを祈りながら、俺は二階にある最後の部屋へと歩みを進めた。


「おそらく……あるとしたらこの部屋だ」


 扉の前に立った俺は、まだ見ぬ部屋の中をじっと睨むように目を細める。

 消去法……というほどでもないけれど、この部屋がきっと雨音の部屋なのだろう。


「…………」


 ドアノブを握りしめると、先ほどとは違う罪悪感が胸の奥から顔を出す。

 他人の部屋に勝手に入り込むだけでも気が引けるのに、それが女性の部屋ともなれば尚更だ。ふいに、「恥ずかしいから入ったらダメ」と言っていた雨音の姿を思い出してしまい、そんな感情に余計拍車がかかる。


 いや誘拐されたのは俺の方だし……べつに構わないだろ。


 正論めいたことを心の中で呟くと、俺はゆっくりとドアノブを回した。ここも鍵が掛かっていないようでスムーズに動く。

 カチャ、と静かな音を立てて生まれた僅かな隙間が、部屋の中と廊下の空気を繋ぐ。そのまま扉を全開にしようと腕に力を込めるも、さっきから胸の奥でチクチクと邪魔をしてくる感情のせいで、それ以上隙間を広げることができない。


「……」


 俺は小さくため息を吐き出すと、再び扉をそっと閉めた。どうせアイツのことだ。俺が勝手に部屋に入ったとわかれば、やっぱそういうの興味あるんだ? とか言っておちょくってくるに決まってる。

 それはそれで面倒なので、俺は短いため息を吐き出すと二階にある部屋を背にして階段へと向かった。

 そして一階に降りてリビングに再び足を踏み入れると、ぐるりと部屋の中を見回す。ここにスマホが隠されているとは考えにくいが、一応目につくところだけでも探しておこう。 

 俺はそんなことを思うとリビングに置かれている棚や引き出し、そして念のためにキッチンにある食器棚の中も覗いてみた。

 が、もちろんそんなわかりやすいところに隠されているわけもなく、出てくるのはどこの家庭にもありそうな生活用品か、時たまに高価そうな雑貨類が見つかるだけ。これはおそらく雨音が帰ってくるまでは、俺のスマホが手元に戻ってくることはないだろう。


「はぁ……」

 

 俺は脱力するようにソファに背中を預けると大きくため息をついた。こんなことになるなら、最低限の貴重品ぐらいは肌身離さず持っておくべきだった。

 今更そんなことを後悔をしても遅いと思いつつ、ぼんやりと部屋の中を見渡していると、ふと心の中に何かが引っかかった。

 

 そういやこの家……なんか足りないな。

 

 一通り家の中を確認した後だからだろうか、俺は無意識にそんな言葉を呟くともう一度注意深く辺りを見回す。

 確かにこの家には雨音が住んでいる気配はするのだけれど、何かが足りない気がする。特にこれといって重要なものではないと思うのだけれど、小さな違和感が喉に刺さった小骨のように心の隅っこに引っかかるのだ。

 俺は眉間に皺を寄せるとその違和感の正体を確かめようとじっと目を凝らす。けれど目には見えないものを突き止めようとしたところでわかるはずがない。

 結局探すのも考えるのも疲れた俺は諦めてソファの上に寝転がると仰向けになった。どのみちこの家のことや雨音の生活について何かわかったところで俺には一切関係がない。わざわざ自分から首を突っ込んで面倒くさいことに巻き込まれるのもごめんだ。


「とりあえず雨音が帰ってきたらスマホを取り戻して、さっさとこんなところから逃げよう」

 

 俺はそんなことを呟くと、いつまでもぐるぐると回り続ける思考を無理やり止めるかのように、ぎゅっと瞼を下ろした。

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