第37話 雨音の過ち

 その日の晩、雨音の父親が仕事から帰ってきても、弟の真樹あつきの姿はまだ家の中にはなかった。

 何度携帯で連絡をしても繋がらない弟のことが心配になった雨音は、事情を父親に説明して探しに行こうと相談するも、息子の行動に呆れ返った父親は首を縦には振らなかった。

 どうせすぐに泣きついて戻ってくる。母親も雨音と一緒になって心配する中、父親はそんな言葉だけ告げると、それ以上は真樹の話しはしなかったらしい。

 

 が、そんな父親の予想とは裏腹に、真樹は次の日も、その次の日も家には帰ってこなかった。 


 連絡も取れない。

 どこにいるのかもわからない。

 今まで経験したことのない不安が雨音の心をむしばんでいき、そしてさすがの父親も、真樹が家に戻らなくなって3日が過ぎると、放っておくことができなくなっていた。

 そろそろ警察に届け出を出したほうがいいのではないかと、心配する母親の話しを雨音と父親が黙って真剣に聞いていた時、突然家の電話が鳴り響いた。

 時刻はすでに午前零時を過ぎていて、不気味に鳴る電話の音が得体の知れない恐怖と共に雨音の家族を飲み込んでいった。


「俺が出る」と立ち上がった父親は、震える手で受話器を持つと、それをそっと耳に当てて大きく深呼吸をした。そしてその直後、喜びと安堵するような声を漏らして雨音たちの方を見た。

 

 それは警察からの電話で、家出中だった真樹を無事に保護したという連絡だったのだ。

 

 その話しを聞いた瞬間、雨音と母親はその場で泣き崩れたらしい。

 あの子が、大切な真樹が無事だった。

 それがわかっただけで、やっと自分が生きているという実感が持てるほど、雨音の心は不安と恐怖で追い詰められていたという。

 

 警察との電話を終え、同じように目に涙をためていた父親は、さっそく車で迎えに行くと言って玄関へと向かった。

 母親もそれに続き、雨音も一緒について行こうとしたのだが、それを両親は止めた。

 

 あの子が帰ってきた時に安心できるように、温かい家で迎えてやりたい。

 

 そんな母親の言葉を聞いた雨音は、たぶんお腹が減っているであろう真樹の為に、ご飯を作って待っていると約束した。


「行ってらっしゃい」


 自分にとって大切な弟を迎えにいく両親の背中に向かって、雨音は今まで感じたことのない喜びと一緒にその言葉を送った。


 そしてその時に思ったのだ。

 

 家族が一人欠けてしまうだけで、こんなにも不安になり、臆病になってしまう。

 今まで気付かなかった大切なことが、真樹あつきが家出をしたことによって痛いぐらいに気付かされた。


 だから真樹が帰ってきて、また家族みんなで一緒になれた時は、今度は自分がこの家族を支えていこう。

 私ができる方法で、お母さんやお父さん、そして弟の真樹がこの家にいて幸せを感じることができるように。

 

 だからその最初の一歩として深夜遅くにキッチンに立った雨音は、腹を空かしているであろう弟の為と、そして迎えに行ってくれた両親の為に、精一杯の愛情を込めて料理を作り始めた。  

 これから自分たち家族の絆が、もっと深く、そして強くなってほしいと願いながら。

 

 けれど、そんな雨音の願いが叶うことはなかった。


 真樹は帰ってこなかったのだ。


 いや、真樹だけじゃない。


 父親も母親も、雨音の家族は誰一人帰ってこなかった。

 

 明け方近くになって、リビングで家族の帰りを一人夜通し待っていた雨音の耳に、再び電話の音が聞こえてきた。

 きっとお父さんだ、と思った雨音は急いで電話機へと向かうと受話器を握りしめた。

 そして、その向こうから聞こえてきた言葉に、思わず言葉を失ってしまう。

 

 それは、病院からの電話だった。

 

 その電話で雨音は初めて、父親たちが真樹を迎えに行った帰りに事故に遭ったことを知った。


 受話器の向こうから聞こえてくる言葉が、どこか違う世界の話しを聞いているかのようで、雨音にはその話しが信じられなかった。

 

 真樹あつきを迎えに行った父親たちは、家を出てから一時間後には真樹が保護されている警察署に到着し、そこで彼を無事に引き取ってからすぐに家に向かったという。

 

 3日間も家に帰らず外をふらふらと彷徨っていた弟は、疲れ切った顔をしていたけれど、身体のどこにも問題はなかった。

 そのことに安堵した両親だったが、自分たちもまた真樹のことを心配していたがゆえに心身ともに疲労していたのだ。


 けれどそのことを忘れていた父親は、真樹と母親を乗せた車で家に向かう途中、対向車線から無茶な運転をして走ってくるトラックに気付くことに遅れてしまい、誤った形でハンドルを切ってしまった。

 

 その直後、雨音の家族を乗せていた車は、猛スピードで走ってくる鉄の塊と正面から激突。

 何度も横転した車は、ガードレールにぶつかりやっとその勢いを止めたが、中に乗っていた雨音の家族は全員即死だったらしい。

 

 淡々と状況を告げられる中、頭の中が真っ白になった雨音は、受話器を落とすとそのまま力なく崩れ落ちた。

 わけがわからず、理解もできず、どんな言葉も、そして涙さえも彼女からは出てこなかった。


 嘘だ……きっと夢だ……私はきっと、悪夢を見ているだけなんだ……


 誰もいない家で、二度と家族の声が聞こえないリビングで、雨音は何度も何度も自分の行いを悔いた。

 

 あの時、無理やりにでも真樹のことを止めていたら。振り払われた腕を、もう一度しっかりとこの手で握りしめていたら。

 

 たった一つの小さな選択が、雨音の全てを奪い去ってしまった。唯一無二であったはずの親との繋がり、そして、兄弟との繋がり。

 

 どれだけ願ったとしても、どれだけ手を伸ばしたとしても、今まで当たり前だと思っていたはずのその繋がりに、自分の手が触れることはもう二度とない。

 

 実感のない空虚な身体と心に、窓を叩く雨の音だけが響く中、雨音は自分の手を強く握りしめながら、そこでやっと自分が泣いていることに気付いた。

 

 まるで、壊れた心を流し出して捨ててしまうかのように。

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