第38話 雨の音

 俺は息を潜めるようにして、雨音の話しを黙ったまま聞いていた。

 

 一体どれくらいの時間、そうしていただろうか。

 ふと窓の向こうを見てみると、夕暮れの光を分厚い雲が覆っていた。その雲と同じ、今にも泣き出しそうな声で、再び雨音の声が耳に届く。


「だからあの日……家の前で君と出会った時、私は一瞬幻を見ているんじゃないかって思ったの。そして気付けば……君のことを呼び止めてた」


「……」

 

 俺の脳裏に、あの日、家出をした直後に出会った雨音の姿が浮かぶ。

 見知らぬ俺に突然声をかけてきた彼女。

 きっと雨音はあの時、俺の姿に弟の真樹あつきの面影を重ねていたのだろう。

 腕を伸ばせば届くはずの距離にいた彼を掴むことができなかったその手のひらで、今度は俺との繋がりを掴もうとしたのだ。

 叶えることができなかった自分の願いを、救うことができなかった大切な命を、たとえそれが偽りの幻だとわかっていても、彼女はもう一度手に入れようとしたのだ。

 そう。まるで目覚めた後に消えていく夢の続きを見ようとするかのように……

 

 耳が痛くなるような静けさだけが、空っぽになっていく俺と雨音との距離を埋めていく。

 向けるべき矛先がわからない痛みと怒りが胸の奥底から湧き上がってくるのを感じるも、俺はどんな言葉でそれを吐き出せばいいのかわからない。

 わかっている……雨音が悪いわけじゃない。

 自分がいつの間にか勝手に期待していたのだ。雨音が俺を通していつかの夢の続きを見ていたように、俺もまた、初めて心の底から繋がりを持ちたいと思った彼女に、自分勝手な夢を押し付けていたのだ。

 雨音にとって誰よりも特別な存在になりたいという、厚かましいぐらい身勝手な夢を……

 

 俺は無意識にきつく結んでいた唇を力づくでほどくと、とめどなく溢れてくる感情を押さえ込もうと深く息を吸う。けれどそんなことをしたところで、張り裂けそうな胸の痛みが消えるわけがない。


「……んでだよ」

 

 思わずぼそりと呟いた自分の言葉に、「え?」と囁くような雨音の声が返ってくる。


「なんで……なんで嘘ついてたんだよ」


「それは……」

 

 こみ上げてくる怒りをどうしても抑えることができず、俺は責めるような口調で雨音に尋ねた。そんなことを聞かなくたって、本当はわかっているくせに。

 

 それでも雨音は俺の質問に答えようとしてくれているのか、言葉を探すように震える唇をわずかに上下させた。

 けれどその唇から俺が期待するような言葉が出てくるはずもなく、雨音は小さく息を吸った後、諦めるようにそっと口を開いた。


「……ごめんさない」

 

 雨音の口から絞り出されたそのたった一言で、俺は今まで彼女と築いてきた時間が何もかも偽りだったのだと気付いてしまう。

 違う、俺が雨音の口から聞きたかった言葉は、そんな言葉なんかじゃない。

 嘘でもいいから、冗談でもいいから言って欲しかった。今日まで俺が彼女と過ごしてきた時間は本物なのだと、そんな言葉がほしかった。でも……

 

 俺は再び唇をぐっと強く噛むと、やっと雨音の方に顔を向けて、鋭い目つきで彼女のことを睨んだ。

 けれどキッチンに立つ雨音はずっと顔を伏せたままで、こちらを見ようとはしない。

 そんな彼女の姿を見て、胸が握り潰されそうなほど痛くなる。張り裂けそうになる。無蔵に込み上げてくる怒りの感情や悲しみが、強く自分の心に訴えかけてくる。

 だから俺は、言ってはいけないとわかっていながら、言えば雨音が傷つくと理解していながら、それでも我慢できずにその言葉を口にする。


「……罪滅ぼしのつもりだったのかよ」


「え?」

 

 俺の言葉に、雨音の肩が一瞬ビクリと震える。そして怯えるような瞳で、俺の方を見た。


「自分が弟のことを助けることができなかったからって、俺でその穴埋めをしようとしてたのかよ?」


「……」

 

 責めるような口調で再び問うと、雨音は何も言わずにまた顔を伏せる。それが何だかとても悔しくて、俺はさらに語気を強める。


「べつに俺じゃなくても良かったんだろ? 隣に住んでる無関係な俺のことなんてどうでも良くて、本当は弟の真樹あつきに居て欲しかっただけだろ?」


「ちが……私は……」


「うるさいッ!」

 

 耳をつんざくような自分の叫び声が、張り詰めた空気を揺らした。その瞬間、雨音が凍りついた表情を浮かべる。

 一瞬の沈黙。これ以上この場所に、雨音の前にいることは耐えられないと感じた俺は、そっとソファから立ち上がるとキッチンに立つ彼女の方は見向きもせずにリビングを出た。

 そして向かい側の部屋に入ると壁際に置いていたリュックをすぐさま背負い、再び廊下に出て玄関へと向かう。


「なに……してるの?」

 

 雨音からもらった靴ではなく、ボロボロになった自分のスニーカーを履こうとした時、背中から彼女の震える声が聞こえた。


「……出て行く」

 

 俺はしゃがみ込んで背中を向けたままぼそりと呟いた。その言葉に、彼女がすっと小さく息を吸う。


「待って彰くん、私はそんなつもりで……」

 

 話し始めた雨音の言葉を遮るように俺は立ち上がると、玄関の扉に向かって一歩を踏み出す。

 と、その時。俺の右腕を雨音が掴んだ。


「お願い彰くん、私の話を聞いてほしいの! 私は君のこと……」


「離せよッ!」

 

 俺は雨音の手を無理やり振り払うと急いで扉を開けて外へと飛び出した。

 いつの間にか降り出した雨が激しく全身を打つ。それでも俺は傘も持たずに濡れたアスファルトの上を全力で駆け出す。今日まで紡いできた繋がりを、自ら断ち切るように。


 お願い、行かないでーー


 雨粒の音が強く鼓膜を震わす中、俺はほんの一瞬、そんな雨音の声を聞いたような気がした。

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