第29話 まだ何も知らない

 誰かが話しているような気がして、俺はうっすらと瞼を開けた。辺りはまだ暗くて、夜の静けさだけが増しているのがわかった。

 目の前を見ると、いつの間にか手を離していた雨音が、俺に背を向けて寝ていた。


「……雨音?」

 

 何となく彼女の肩が震えているような気がして、俺はぼそりと声を漏らした。けれど、雨音からの返事はない。

 寝てるのか? と思った俺は再び目を閉じようとしたが、暗闇の中で微かに雨音の声が聞こえてきて、今度は静かに上半身を起こす。


「あま……」

 

 彼女の名前を呼ぼうとした唇が思わず止まってしまった。暗闇の中、肩を震わせる彼女の顔を覗き込むと、雨音はなぜか泣いていたのだ。


「雨音……おい雨音どうしたんだ?」

 

 動揺した俺が声を掛けるも、雨音は俺の呼びかけに何も反応しない。どうやら、まだ夢を見ているようだ。


「……」

 

 眠っていることはわかったものの、不安になった俺は動くことができず、そのまま雨音の様子を見つめていた。


「……なさい……ごめ……」

 

 微かに聞こえた彼女の声に「え?」と気になった俺は、雨音を起こさないようにゆっくりと近づいて耳を傾けた。すると彼女は声を震わせながら、何度も何度も「ごめんなさい」と謝っていた。

 

 どうしたんだろ、雨音……

 

 俺はどうすることもできず、ずっと同じ言葉を繰り返す雨音のことをただ黙って見つめていた。いくら夢を見ているとはいえ、こんな雨音の姿を見るのは初めてだ。

 漠然とした不安が自分の心を飲み込んでいく。

 弱々しくて、今にも消えてしまいそうな雨音の声が鼓膜を揺さぶるたびに、なぜか胸が締め付けられるように痛んだ。

 そして、暗闇の中で一人肩を震わせ続ける彼女の姿を見ていた時、俺ははたと気がつく。


 彼女が俺のことを何も知らないように、自分もまた、雨音のことをまだ何も知らないのだとーー

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