第30話 今日だけは譲れない

 雨音との一泊二日の温泉旅行が終わった後も、俺はそのままさらに遠い地に足を向けるわけでもなく、彼女の家、つまり自分の家の隣に居座っていた。

 もうここまでくると、これは家出ではなく、家族が旅行中の間、親戚の家に預けられている子供と何ら変わりがない。 

 そんな情けないことをソファに寝そべりながら考えていると、ドタドタと雨音が階段から降りてくる音が聞こえてくる。


「それじゃあ出掛けてくるから留守番よろしくねッ!」


 リビングに顔を出した雨音は、いつものように明るい声でそう言うと、俺を見てニコリと笑った。

 あの旅行での夜の出来事があってからも、雨音は何も変わらずいつも通りのままだ。夢を見て泣いていたことは、きっと彼女は覚えていないのだろう。

 一瞬そんなことを考えた後、「ああ」とぶっきらぼうに返事をして右手を軽く上げると、雨音も「行ってきます!」と手を振り返してから玄関へと向かっていった。

 

 これじゃあ俺もここの住人だな……


 ついそんなことを思ってしまい、俺は自分自身に呆れてため息を漏らす。その間、ドアが開く音とガチャガチャと鍵を閉める音が連続して聞こえてきた。どうやら今日も雨音は予定通りにちゃんと出掛けたみたいだ。


「……よし」


 俺は声を漏らすと、自分以外誰もいなくなった家で行動を開始した。ソファから起き上がりリビングを出ると、今では完全に自分の部屋と化している目の前の洋室へと入る。

 そして雨音が買ってくれた部屋着から家出用の服に着替えると、今度は机の引き出しの中から財布とスマホを取り出す。すっかり俺を信用しきっている雨音は、今では外出中でも俺の身の回りのものは全て家に置いていくのだ。おそらく、俺がこの家から出て行くことがないと思っているのだろう。


「……甘いな」


 俺はふっと笑みを浮かべてそんな言葉を呟くと部屋を出て、ついさっき雨音が通ったばかりの廊下を進んで玄関へと向かった。そして最近新しくなったばかりのスニーカーに足を通すと、雨音とは違い慎重な足取りで外へと出る。


「……あつ」

 

 一歩外に出ると、そこはもう夏の地獄だった。

 射抜くように容赦なく日差しが降り注ぎ、相変わらずセミの鳴き声はしゃわしゃわと警報のようにうるさく響いている。雨音の家から出て、目の前にある道路まで歩くだけで、早くもじわりと額に汗を感じ始めていた。


「よくこんな状況で毎日出歩けるよな……」


 もはやルーティンと化している雨音の謎のお出掛けのことを思った俺は、呆れたように息を吐き出した。仕事もしていない彼女が、飽きもせず毎日どこに向かっているのか、俺はまだ知らない。

 

 ……いや、知らないことはそれだけじゃないか。

 

 ふとそんなことを思うと、胸の奥がチクリとしたような気がした。その痛みで刺激されるかのように、あの日の夜、一人泣いていた雨音の姿が瞼の裏にチラつく。

 俺は小さく首を振ってそんな光景を頭の隅に追いやると、照り返しが強いアスファルトの上を歩いていく。

 鋭く刺さる夏の陽光のせいか、それとも胸の奥に詰まったわだかまりのせいなのか、何だか少し息苦しさを感じてしまう。

 かと言って、クーラーが効いて快適なあのリビングに戻って休むわけにはいかない。年中家に引きこもっているほうが性に合う俺の性格でも、今日だけはどうしても出掛けないといけないのだ。なぜなら……

 俺はズボンのポケットからスマホを取り出すと、スリープモードから解除する。画面にでかでかと表示された時間と今日の日付。そこに示された数字と曜日に間違いがないことを確かめると、俺はスマホをそっとポケットになおした。

 出不精で面倒くさがりの俺が、それでも灼熱の炎天下の中を出掛ける理由。


 なぜなら今日は……雨音の誕生日なのだ。

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