第7話 先手必勝
翌朝、無理やり朝食の席に座らされた俺は、赤鬼も驚くほど顔を真っ赤にさせて頭を伏せていた。
「いやー、中学生とはいえ君もやっぱり男の子なんだね。私もビックリしちゃった」
「………………」
昨日と同じくあっけらかんとした口調で史上最低なことを口にする相手を、俺はギロリと鋭い目つきで睨みつける。
ちなみに俺の良心とモラルを保つために先に言っておくが、こんな誘拐犯とやましい関係など一切持っていない。……じゃあ何が起こったかなんて野暮なことは、思春期男子の俺に聞くな。
そんなことを思いながら、ガウンガウンと朝一から回っている洗濯機の音が先ほどから拷問のように鼓膜に響く。
「まあこんな綺麗なおねーさんと一緒に寝れたら、さぞやステキな夢を見れ……」
「うるせッ! 二度と喋んなこのクソ女!」
咄嗟にそんな暴言で相手の言葉を遮ると、雨音は「もうッ」と唇を尖らせた。
「そんなに口が悪いと女の子にモテないぞ」
「はっ、べつにそんなこと求めてねーよ。だいたい女なんて興味ないし」
へー興味ないのに……、とニヤリと笑う雨音がまた余計なことを言ってきそうだったので、俺はもう一度睨みを利かせてその言葉の続きを制した。
「冗談だよ冗談! ……あ、私そろそろ出掛けないと」
壁にかかった時計をチラリと見た雨音がそう言った瞬間、俺は思わず「マジで」と喜びの声を漏らす。直後、今度は雨音の方が目を細めて睨んできた。
「私が出かけるからって言っても勝手に逃げ出したらダメだからね」
「……」
まるで先生が小学生にでも注意するような口ぶりで、雨音は俺に忠告してきた。もちろん俺は何も答えずそっぽを向く。
「もし逃げ出したら私は地の果てまで君を追いかけるから」
「やめろよ、お前が言うと本当に追いかけてきそうで怖い」
結構本気のつもりでそう言ったつもりだったが、どうやら雨音には冗談に聞こえたらしくクスクスと肩を震わせて呑気に笑っている。
「それが嫌だったらちゃんと大人しく家でお留守番してること。今日は私が腕によりをかけて手料理を作ってあげるから楽しみに待っててね!」
「……」
ただでさえこの環境から逃げ出したいのに、雨音の手料理とか聞いてしまうと余計逃げ出したくなる。
なんてことを言えばパンチの一つでも飛んできそうなので、俺は口に含んだ不満をトーストと一緒に無理やり喉の奥へと押し込んだ。
「それじゃあ私はそろそろ支度を始めますか。彰くんは昨日話した条件さえ守ってくれれば何してても良いからね」
ニコリと微笑んで雨音はそう言うと、グラスに残っていた牛乳を飲み干して席を立つ。
逃げ出さない代わりに家の中で何してても良いとか、昨日出会ったばっかりの見ず知らずの人間に言えるコイツの神経がわからない。
伸びをしながらリビングの扉へと向かっていく雨音の後ろ姿を見つめながら、俺はそんなことを思った。
「……出かけるって、仕事か?」
不意に口を突いて出た質問に、雨音が「え?」と振り返って足を止める。
「違うよ。仕事は休みだって昨日言ったじゃん。今の私は君と同じで夏休みを満喫中!」
「夏休みって……」
別に俺は満喫してないし、と眉根を寄せて表情で訴える。が、もちろん雨音には届くはずもなく、彼女は明るい声で話しを続ける。
「買い物してから帰るつもりだけど、夕方までには戻ってくると思うから」
「じゃあそれまでに逃げ出せばいいってことか」
ぼそりと小声で呟いたはずだったのに、どこからともなくクッションが飛んできて慌てて避けた。どれだけ地獄耳なんだよコイツ!
「ちゃんと良い子でお留守番してたら彰くんが好きなハーゲンダッツ買ってきてあげるからね!」
「別に好きだなんて一言も言ってないだろ……」
呆れた口調で言い返せば、「へへッ」と何故か楽しそうに笑う雨音。そのまま彼女は軽く右手を振るとくるりと背を向けてリビングを出て行った。
やっと静けさを取り戻した空間で俺は脱力するように大きくため息を吐き出すと、おでこをこつんとテーブルにつける。
「……何やってんだろ、俺」
家出生活の2日目。予想外にもノー出費で食事と寝床にはありつくことができたが、移動距離はまさかのほぼゼロ。本当なら今頃、県の一つや二つは軽く超えていたはずだ。なのに……
「はぁ……」と絶望感たっぷりのため息を吐き出して本来の家出計画について色々と思考を巡らせていた時、またもリビングの扉が勢いよく開いた。
「それじゃあ良い子で留守番よろしくねッ」
「……俺は小学生か」
冷めた言葉と一緒に冷めたい視線を送るも、相手は夏の太陽みたいな笑顔で返してくる。そして「行ってきまーすッ!」と耳障りなほど元気な挨拶をしてきたかと思うと、雨音はバタバタと慌ただしく玄関へと向かっていく。……アイツの方が絶対小学生だろ。
そんなことを心の中で毒づきながら耳を澄ませていると、閉め切られたリビングの扉の向こうからガチャンという音が聞こえてきた。どうやら雨音は本当に俺一人を残してこの家を出て行ったようだ。
「……よし」
俺はゆっくりと椅子から立ち上がると扉の方へと近づき、様子を伺うようにそっと廊下に出る。さっきまで雨音が居たことが嘘のように、辺りの空気はしんと静まり返っていた。
「隠れてる……ってことはなさそうだな」
広い玄関には履き潰されてボロボロになった俺のスニーカーしか見当たらず、ちゃんと雨音が外出したことを確認できた。
万が一、と思い俺はスニーカーに足先だけ突っ込むと、今度は玄関扉も開けて外の様子も確かめる。昨日と何一つ変わらない青空の下には、相変わらずしゃわしゃわと蝉の鳴き声が聞こえているだけで、辺りに人がいる気配は感じない。
逃げるなら今しかない。
瞬時にそう判断した俺はつま先を再び家の中へと向けると昨日寝ていた寝室を急いで目指す。そして部屋に入ると入り口近くの壁際に置いていたリュックを背負った。
たった一日とはいえ至れり尽くしてくれた雨音には悪いが、俺はこんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
そんなことを思いながら俺はデスクに近づくと引き出しを開けて、家出には必須アイテムである財布と……
「……ない」
スマホがない。見当たらない。おかしい……昨日たしかに財布と一緒にここに入れたはずだ。それなのに……
嫌な予感と背中に滲み始めた汗を感じつつ、俺は引き出しの中をガサゴソと漁る。するとスマホの代わりに一枚の紙切れが出てきた。
――君が勝手に逃げ出さないように相棒は人質にしたッ! 返してほしければ大人しく待ってるよーに☆――
「………………」
妙に可愛げのある丸文字と、その横に描かれているウサギのような形をした正体不明の生き物に俺は思わず言葉を失う。どうやら腹立たしいことにあの女に先手を取られてしまったらしい。
俺はその紙切れを右手でくしゃりと握りつぶすと勢いよくゴミ箱へと投げつける。そしてドカッとベッドの上へと座った。
「あのクソ女……」
ふつふつと込み上げてくる怒りのせいで思わずそんな言葉を声に出して呟くも、それをぶつける肝心の相手がいない。いくら財布はあるとはいえ、見知らぬ土地に訪れて地図アプリが使えず通信手段もないのは困る。
それでも強硬手段でこの家を飛び出してやろうかと一瞬思ったものの、俺は諦めてため息を漏らすと、不本意ながら背負っていたリュックを床へと降ろした。そして、ベッドの上で仰向けになる。
「これのどこか家出なんだよ……」
今度は誰に言うわけでもなく、空虚な部屋の中で一人ぼそりと呟いた。
イラつく心も焦る気持ちも無理やりため息に変えて吐き出すと、俺は何もかも断ち切るようにぎゅっと瞼を閉じる。真っ暗になった世界の中、耳の奥にふと残っていたのは、昨日雨音が言ってきたあの言葉。
ーー何で家出しようと思ったの?
思い出したくもない台詞に、「べつにお前には関係ないだろ」と思わず呟いてしまう。
これは俺個人の話しであって、他の人間には関係がない。というよりむしろ俺は、もう誰とも関わりたくない。繋がりなんて持ちたくはない。
それがたとえ血の繋がった人間や、同じ家に住んでいる人間であったとしてもだ。
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