第17話 その言葉がほしくて

 それから俺と雨音の共同生活は、特に明確なルールを定めたわけではないけれど、自然と家事は役割分担するようになっていた。

 とは言っても、俺がするのは風呂掃除とかゴミ捨てとか簡単なものが多く、他の家事をしようとすると「私がするから彰くんはくつろいでて」とすぐに雨音に奪われてしまう。 

 家事はできると何度も言っているのに俺のことをそんなに信用してくれないのかと怒りを通り越してもはや呆れていたが、どうやらそうではなく、雨音なりに気を遣ってくれているらしい。

 ……ってか、それならそろそろ俺を解放しろよ。

 

 もちろん俺も一日でも早く、隣にある自分の家から遠ざかるために、雨音には事あるごとにここを出て行くと主張しているのだが、彼女は何かと理由をつけては逃してはくれない。

 朝出発すると言えば「人目につかないように夜の方がいい」とかアドバイスしてくるくせに、夜になればなったらで、「明日は雨だから晴れてる時の方がいいよ」とか言ってくるのだ。

 挙げ句の果てに、「家出を成功させる秘訣は大安の日に出発すること」だなんて、まるでとってつけたような理由を述べては俺のことを手元に置きたがる始末。これじゃあ家出じゃなくてただの普通の共同生活かまるで同棲……


「……なわけないか」


 危うく中学生の身分で変なことを考えてしまいそうになり、俺は思わず首を振って独り言を呟いた。いくら何でも14歳の自分と、9つも年上の女との生活をそんな風には言わないだろう。

 ソファに寝転びながら、自分自身に呆れてしまってため息をついた俺は、そのまま静かに目を瞑った。窓から差し込む昼前の陽光はほどよく暖かくて気持ちよく、瞼を閉じていても身体が優しく包み込まれているのがわかる。

 その居心地の良さが、何となく、雨音と一緒にいる時に似ているなとまた余計なことを思ってしまった俺は、今度は恥ずかしさを誤魔化すように一人咳払いをした。……ちょうど雨音が外出中で心底良かったと思う。

 雨音はほとんど毎日のように、午前中のこの時間は出掛けていることが多い。仕事もしていなくて知り合いもいないと言っていたのに一体どこをほっつき歩いているのだろうかと最初の頃は気になっていたが、聞いたところで「内緒ッ!」といつもはぐらかされるのがオチなので、最近はべつに聞いていない。 

 それに四六時中ずっと雨音と二人っきりというのも、俺にとっては非常に困る。

 さっきみたいに妙なことを意識してしまう瞬間があるし、雨音の無防備すぎる行動にドギマギしたりと心が落ち着かないので、こうやって一人の時間が確保できることはありがたいのだ。


「ってか俺……この家にいつまでいなきゃいけないんだろう」

 

 高い天井をぼんやりと見つめながら、俺はそんな言葉をぼそりと口にする。雨音がいないということは逃げ出すチャンスではあるのだけれど、さすがの俺もここまで色々と関わっておいて何も言わずに蒸発するというのは、後味が悪くて気が引けてしまう。

 かと言って、雨音の方から解放してくれる気配は今のところなさそうだけれど……

 違う意味で前途多難な家出生活についてあれこれ思考を巡らせていた時、リビングの扉の向こうからガチャガチャと鍵を開けるうるさい音が聞こえてきた。どうやら家の主人あるじが帰ってきたらしい。


「たっだいまーッ!」

 

 勢いよく扉が開くと同時に、夏の太陽よりも暑苦しい声がリビングに響き渡った。もちろん俺はいつも通りに無視をする。

 すると視界の隅で子供みたいに頬を膨らませる雨音の姿がチラリと映った。


「返事がないなー、寂しいなー、誰かいないのかなー??」


「…………」


 あからさまに俺のことをじーっと見つめながら、雨音が拗ねた口調で言葉を漏らす。そんな雨音の訴えを無理やり遮るように、俺は彼女に背を向けると狸寝入りを始める。こうでもしないと雨音はしつこく……


「こらーッ! 私のことを無視するな!」


 ドン! っと突然下腹部に衝撃と重みが走り、俺は思わず「うわッ!」と声をあげた。そして、目の前の光景を見てさらに驚く。

 

 なんと雨音が俺の身体に馬乗りになっているではないか!

 

 あまりの驚きのせいで声も出せずに固まる自分に、雨音は何の恥じらいもなく太ももの内側で俺の腰をぎゅっと強く締め付けると、逃がすまいと言わんばかりにニヤリと笑う。

 

 これはマズイ、この絵面は非常にマズイっ! これじゃあまるで……


 と、ロクでもないことを一瞬考えてしまった俺は、そんな恥ずかしい考えと一緒に雨音の身体をすぐに追い払うと、慌ててソファの隅まで退避する。そして、火炎放射でも浴びてるんじゃないかと思うほど熱くなった顔で思いっきり怒鳴った。


「何バカなことやってんだよッ! 女のくせにありえないだろ! ってか重いし!」

 

 本当は全然重くはなかったのだが、せめてもの反撃として咄嗟にそんな言葉を口にすれば、今度は珍しく雨音の方が顔を真っ赤にする。


「なッ! 失礼なやつめ!! これでもちゃんと太らないように気を付けてるんだから」


 結構相手の痛いところを突くことができたようで、雨音は捲し立てるようにそう言うと、俺の顔をキッと睨んできた。

 が、すぐにまたその口元をニヤリとさせる。


「そんなデリカシーのないことを言う悪い子には……」


 そこで言葉を止めた雨音は、何を血迷ったのか、再び俺に飛びかかってきたかと思うと、「こーちょこちょッ!」と今度は脇腹のあたりを両手でこそばせてきた。

 物理的な弱点をいきなり突かれてしまった俺は、「やめろ、やめろって!」と慌てて身を捩りながら逃げ出そうとするも、雨音が相手だと無闇に力を入れることができない。

 その間も雨音はやたらと身体を密着させてじゃれてくるので、柔らかいのとか、温かいのとか色んな刺激が強すぎて、俺は呼吸さえままならない状態だ。

 それでも両腕を振り回して必死に抵抗を試みていると、一瞬左手がむにりとやたらと柔らかいものを掴んでしまったような気がしたが、俺はどさくさに紛れてその記憶をすぐに削除した。


「ちょ……マジでやめろってッ!!」

 

 助けて! と言わんばかりの勢いで声を上げる自分に、雨音はその手を緩めるどころかさらに悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「ちゃんと謝ってくれるまで許しませーん! それに、挨拶だって返してくれてないし」


「わ、わかった! ごめん、ごめんって!」


 あははははッ! と情けないほどに笑い声を上げながらも、俺は早くこの状況から解放してもらうために「ごめん」の3文字を連発する。

 するとようやく雨音は俺の脇腹から両手を離してくれた。が、まだ何か物欲しそうな表情を浮かべたまま俺の身体にくっついて離れようとはしない。


「……」

 

 やっとまともに呼吸ができるようになったものの、間近に雨音の豊満な胸元が迫っていることや、彼女の唇から漏れる生温かい吐息のせいで、胸の鼓動は一向に落ち着く気配を見せない。

 このままだと心臓どころか色んなものが爆発しそうだと思った俺は、諦めるように息を吐き出すと、嫌々ながらもその言葉を口にする。


「…………おかえり」

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