第35話 もう戻れない
陽が傾き始めた空の色でリビングが少し暗くなった頃、玄関の方から雨音が帰ってきた音が聞こえた。
「たっだいまー! ごめんね、買い物してたらちょっと遅くなっちゃった」
「……」
両手いっぱいにスーパーの袋やらどこかの紙袋を持った雨音が、相変わらずの笑顔と声でリビングに入ってきた。
が、いつもと同じはずのその姿が、なぜか今の俺には違って見えてしまう。
ソファに寝転がってスマホを
すると彼女は俺が拗ねているとでも思ったのか、「もう、そんなに怒んないでよ」と微笑みながら言った後、テーブルの上に荷物を置いてキッチンへと向かった。
「今日は腕によりをかけて彰くんの好きな料理を作るから、期待しててね!」
雨音は俺の方を見てそう言うと、ニコリと笑った。
その笑顔は眩しくて、とても綺麗で……そして、何故か胸が押し潰されてしまいそうなほど痛くなってしまう。
知らなかったフリをすれば、きっと雨音とはこれからもこうやって関わっていけるだろう。
見なかったことにすれば、気付かなかったフリをすれば、俺は雨音の笑顔をこれからだって隣で見続けることができる。でも……
無意識に、深いため息が唇から溢れる。意味もなく見続けていたスマホの画面はいつの間にか真っ暗になっていた。そこに映っている自分の顔が、何だか怒っているようにも怯えているようにも見えてしまい、俺はスマホをそっと胸元に下ろす。そしてまた大きなため息を漏らした。
少なくとも今の俺は、雨音がずっとついてきた『嘘』を許せるほど、彼女のことを無関係でどうでもいい人間だとはもう思えなかった。
だからこそ、ちゃんと確かめたい。
雨音が俺のことを、本当はどう思っているのかを……
俺は覚悟を決めるために静かに深呼吸をすると、震えそうになる唇をぎゅっと強く噛んだ。
そして、キッチンに立つ雨音の後ろ姿に向かって、絞り出すような声で言った。
「お前さ……ほんとは『兄弟』いるんだろ?」
「え?」
不意に呟いた自分の言葉に、雨音の動きがピタリと止まる。その瞬間、まるで空気を凍らせたかのような沈黙がリビングの空間を飲み込んだ。
ほんの数秒にも満たない僅かな時間が、これまでの自分たちの関係にヒビを入れていく。
俺は目を閉じると、ただ黙ったまま雨音の言葉を静かに待った。すると暗闇の向こうから、彼女の声が聞こえてきた。
「……見ちゃったんだね」
「……」
雨音の声は小さく、そして微かに震えていた。
そこにいつものような明るい彼女の姿はなく、自分と同じで、まるで何かに怯えているようにも感じてしまった。
だからだろうか。
俺は胸の中に抱えていた不安を、確信に変えてしまう。
「……」
本当は、冗談でもいいから「そんなわけないじゃん」っていつもみたいにからかってほしかった。
いつもみたいに、「なんでそんなことするのよ!」ってわざとらしく怒ってほしかった。
そしたらきっと俺も、いつものようにまだ許せていたかもしれない。
でも、彼女はそうしなかった。
そしてそれが、答えだった。
俺は雨音の言葉に、ただ小さく頷く。重々しいだけだった沈黙が、今度は刃物みたいな鋭さを伴って喉元に絡みつく。
どんな言葉も、どんな言い訳も、もう聴きたくはなかった。
雨音が嘘をついてでも、兄弟がいたことを隠していた理由。
それがどうしてなのか、年下でまだ人生経験の少ない俺でも、何となく検討はついていた。
そしてその理由こそが、雨音が俺を誘拐した、本当の理由なのだろう。
一人そんなことを考えていた時、まるで俺の思っていることを言い当てるかのように彼女がそっと口を開く。
「ほんとはね……君にはちゃんと話さないといけないって思ってたの」
「……」
耳を塞ぎたくなるような、雨音の泣き出しそうな声。その声音が震えるたびに、俺の心も崩れていくかのように震えてしまう。
静かな沈黙と、窓から弱々しく差し込む夕陽だけが、そんな自分たちを見届けていた。
きっとこれが、俺と雨音の最後の会話になるだろう。
じわりとこみ上げてくる熱を持った感情を、飲み込んだ唾で無理やり押し殺して、俺はそんなことを思った。
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