第39話 出発の時

 つい最近乗ったばかりの新幹線の車内は、今の自分には何故かずいぶんとくすんだ色に見えた。

 俺はリュックを荷台に乗せると窓際の席に座り、発車の時を待つ。

 もう後戻りすることはできないし、あの場所に戻るつもりもない。自分の家にも、そして、雨音の家にも……

 

 そんなことを思うと、この世界から逃げるように俺はぎゅっと目を瞑った。

 それなのに、瞼の裏に浮かんでくるのは今日まで一緒に過ごしてきた雨音のことばかり。

 

 初めて自分のことを受け入れてくれる人に出会えたと思った。

 初めて自分のことを必要としてくれる人に、そして初めて自分にとって大切だと思える人に、俺は出会うことができたと思っていた。そう、信じていた。なのに……

 

 胸の内側を焦がすような熱い感情がそのまま目元までこみ上げてきそうになり、俺は慌てて目を開けると大きく息を吸ってそれを抑え込む。

 ちょうど同じタイミングで窓の向こうの景色が動き出した。新幹線が出発したのだ。

 雨粒によって滲む窓の景色は混沌としていて、まるで整理のつかない自分の心を覗いてようにも見えてしまう。 

 そんなことを思い、俺はそっと窓から視線を逸らすも、頭の中に浮かんでくるのはさっき聞いたばかりの雨音の話し。

 彼女が嘘をつくことで、ずっと一人で抱え込んできた本当の真実。


「……」

 

 俺は再び静かに瞼を閉じると、今日まで過ごしてきた雨音との時間を無意識に振り返る。

 あの話しを聞くことで、俺は今まで感じてきた違和感がようやく全て腑に落ちた。

 どうして雨音が二階にあったあの部屋に入るなと言ってきたことや、なぜあの家には写真が一枚も飾られていなかったのかということ。

 そして、彼女が毎朝出かけていたその理由でさえも……

 

 あの部屋に足を踏み入れてしまった時、本当は雨音に聞かなくても、何となくわかってしまったような気がした。

 一人っ子だと言っていたはずの彼女の家で、あきらかに俺と歳が近そうな男の子が使っていたであろう勉強机やベッド。それにハンガーに綺麗にかけられていたブレザーの制服や、まだ時を刻み続けていた腕時計。

 まるでついさっきまで部屋の主人あるじがいたかのように錯覚してしまうほど、あの部屋にはまだ人の温もりが残っていた。

 忘れ去られたように埃まみれになっていた書斎とは違い、きっと雨音が毎日あの部屋を掃除していたのだろう。

 弟の真樹あつきが、もう戻ってくることはないと知っていながら。二度と使われることはないと誰よりもわかっていながら。

 

 そんな彼女の姿を想像してしまうと、突き刺さるように胸の奥がぐっと痛くなる。きっとこの痛みを、雨音はずっと一人で抱え込んできたのだ。

 そしてそれが我慢できなくなって、あの旅行の夜、彼女は泣いていたのだろう。夢の中で再会した弟に向かって、何度も何度も謝りながら……

 

 ふと窓の外を見上げると、見慣れた景色はとっくに過ぎ去っていたようで、どこか知らない街の光が雨粒に滲んで光っていた。

 そんな景色を見つめながら、雨音は今頃どうしているだろうかと一瞬考えてしまいそうになり、俺は慌てて小さく首を振った。もう、彼女のことを考えるのはよそう。


 何もかも……間違いだったのだ。あんなやつと……雨音なんかと……俺は関わるべきじゃなかった。

 こんな偽物の関係にすがりついてしまったせいで、自分たちはまた失うのだ。大切だった時間も場所も、そして繋がりでさえも。

 

 だから俺たちは……きっと出会うべきじゃなかったんだーー

 

 強く閉じた瞼を再び上げると、雨はさらに激しさを増したのか、熱くなった瞳に映る世界は、何もかもがひどく滲んで見えていた。

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