第16話 彼女の名前

 昼前に出かけたはずが、雨音の家に戻ってきた頃にはすっかり夕方になっていた。雨音は自分の買い物以上に俺の買い物にやたらと時間をかけてきたので、家を出た時は手ぶらだったはずなのに、今はお互い両手いっぱいに紙袋をぶら下げていた。


「ちょっと買い過ぎちゃったかな」

 

 へへっと笑いながら頬をかいて雨音は困ったように呟くものの、その表情は明らかに満足感に満ちている。俺は反対に疲労感たっぷりの表情を浮かべて靴を脱ぐと、廊下に右足を下ろしたと同時に紙袋も足元に置いた。


「だからこんなにいらないって言ったのに……」


 紙袋の隙間からチラリと覗く雨音がチョイスした俺の服や生活用品を見つめながら、俺はため息混じりに呟く。この量だと、数日どころか数週間分はありそうな気がするぞ……


「まあまあ、せっかく彰くんと一緒に買い物出来たんだし、ほしいものは全部買っておかないとね! それにこれだけあれば当分の間はここに住んでても困らないでしょ?」


「…………」


 相変わらず俺のことをまったく解放する気のないその台詞に、寄せた眉根が思わずピクピクと動いてしまう。

 そんな自分の様子に雨音はニコッと白い歯を見せて誤魔化してくると、紙袋を持ったまま先にリビングの方へと向かっていった。俺も小さくため息をついたあと、足元に置いた紙袋を再び握りしめて彼女の後を追う。


「やっと戻ってきたー!」


 雨音は子供のような無邪気な声を上げると、両手に持っていた紙袋をリビングの絨毯の上に置き、ソファに向かってえいっと勢いよくダイブした。

 ガキかよ、と呆れ返った俺は思わず小声で呟くも、乱れた服装も気にせずうーんと伸びをする雨音の姿が妙に色っぽく見えてしまい、俺はついつい二度見しそうになるのをぐっと堪える。

 ダメだ、こんなところで変な誘惑に負けると雨音にまたからかわれるぞ。と自分で自分の心を律していると、ひょいと上半身を起こしてソファに座り直した雨音が、隣の空いているスペースをポンポンと軽く手で叩く。


「彰くんも疲れてるだろうし、そんなところに立ってないでここに座れば?」


「……」


 気遣ってくれているのか、それとも何か企んでいるのか、雨音はニコリと微笑みながらそんなことを言ってきた。俺は少しの間疑いの眼差しを向けていたが、結局両足の疲れに負けてしまい、黙って雨音の隣へと座る。すると彼女の嬉しそうな声がすぐに耳に届く。


「それにしても今日は楽しかったねー! あんな風に誰かと一緒に買い物したの久しぶりだったから私も結構はしゃいじゃった」


 雨音は無邪気な声でそう言うと、照れ隠しのつもりなのか、ぴっと小さく舌を出した。俺はその言葉と仕草にため息をついて顔を伏せると、呆れた口調で言い返す。


「雨音がはしゃいでるのはいつものことだろ」


「……」

 

 嫌味っぽい口調で言ったのですぐにいつもの調子で突っ込みが返ってくるかと思いきや、意外にも雨音からの返答はなく、俺は不思議に思って彼女の顔を見た。

 すると雨音は長い睫毛をパチクリとさせて、なぜか驚いたような表情を浮かべている。


「……なんだよ」


 まったくもって理解不能な雨音の反応に、俺は怪訝に眉をひそめると相手の顔を睨んだ。けれど雨音はさらに不可解なことに、その口元を嬉しそうに綻ばす。


「初めてだね」


「は?」


 ますます訳の分からない雨音の態度に、俺の眉間の皺がさらに深くなった。そんな自分を見て雨音はクスリと優しく微笑むと、今度は落ち着いた声色で言う。


「私の名前、ちゃんと呼んでくれたの」


「…………」

 

 窓から差し込む茜色の光が、少女のようにあどけない照れ笑いを浮かべる雨音の顔そっと照らす。

 そんな彼女の姿を見て、なぜか自分の方が恥ずかしくなってしまった俺は、一瞬返す言葉に困ってしまう。


「……べ、べつに普通のことだろ」


 俺はぶっきらぼうに答えると、ふいっと雨音から顔を逸らした。冷めた表情とは裏腹に、肋骨の裏側では心臓の鼓動がやけにうるさい。

 雨音のやつ……不意打ちみたいに表情をコロコロと変えるのだけはマジでやめてほしい。 

 雨音の顔を直視できなくなった俺は、恥ずかしがっていることを出来るだけ悟られないように彼女から少しだけ距離を置く。すると雨音はそんな俺を見てクスッとまた微笑むも、それ以上は何も言わず、ゆっくりとソファから立ち上がろうとした。

 が、すぐにその動きを止める。


「いたた……ちょっと歩き過ぎちゃったかな」


 雨音はそんなことを一人呟いて座ったまま前かがみになると、靴下を脱いで両足の指を触り始めた。あれだけ俺の買い物にも力を入れて歩き回っていたからだろう、靴擦れでもしたのか、彼女の足の小指と踵は真っ赤になっていた。

 それでも雨音は俺の方を見ると、ニコリと微笑みを浮かべる。


「もう少し休んだら今日の晩ご飯作るからちょっと待っててね」


「……」


 雨音は明るい声でそう言うと、ソファの上で体育座りをして今度はふくらはぎを揉み始める。俺はそんな彼女の様子をしばらく黙って見ていたが、呆れたように小さく息を吐き出すと、そのままソファからそっと立ち上がる。


「……俺が作る」


「え?」


 ぼそりと漏らした自分の言葉に、雨音は少し驚いた表情を浮かべながら俺の顔を見上げる。そして彼女にしては珍しく、慌てた口調で言ってきた。


「いいよそんなの彰くんに悪いし! それに君だって疲れてるだろうし、ここに座ってゆっくり休んどきなよ」


「俺ならお前と違ってもう大丈夫だ」


 雨音の言葉を遮るように俺は強い口調で言い切る。けれど相手も譲らない。


「私だってもう大丈夫だよ。それに……彰くんって、料理できるの?」


 今度は少し不安げな表情を浮かべて尋ねてくる雨音。俺はその言葉に少しイラっとした顔を見せると、雨音に向かって目を細める。


「バカにすんなよ。俺だって料理ぐらいできる」


「へーそうなんだぁ」


 ほえーという表現がぴったりと似合うような間の抜けた表情をする雨音は、驚き半分感心半分といった具合に何度も瞬きを繰り返した。

 なんだよそのリアクション、と俺はまたも不機嫌な声を漏らすと、さらに眉間の皺を深める。雨音はどう思っているのか知らないが、仕事で多忙な父親がいる父子家庭で育った俺は、一通りの家事ならちゃんとこなす事ができるのだ。


「そんな足だと立ってるだけでもしんどいだろ。それに……あれだ……」


「?」


 急に歯切れが悪くなった俺に、雨音が不思議そうに小首を傾げる。

 べつに望んでいなかったとはいえ、雨音が俺の買い物に付き合ってくれていたことは事実だし、そのせいで足を痛めてしまったのも間違いない。

 俺はそんなことを考えると少しバツが悪くなって彼女からそっと顔を背ける。……が、このまま話しをやめるのも何だかスッキリしないし筋も通らないような気がするので、俺はすっと息を吸い込むと再び口を小さく開いた。


「その……色々買ってくれた貸しもあるしな……」


 顔は背けたまま、俺はまったく素直ではない態度と口調で出来る限りの感謝の言葉を口にする。

 正直なところ、「ありがとう」の一つも言えない自分に胸の奥がチクリとしたが、それでも相手にとっては満足だったようで、視界の隅では雨音が喜んでいる姿がちらりと見える。

 その表情があまりにも嬉しそうだったので、何だか俺の方が恥ずかしくなってしまうぐらいだ。


「それじゃあお言葉に甘えちゃおっかな」


 雨音はそう言うと上目遣いに俺のことを見つめてきた。ほのかに夕暮れ色に輝くその笑顔がやけに印象的で、俺は不覚にも綺麗な人だなと改めて思ってしまう。

 そんなことを思ってしまった自分に恥ずかしくなった俺は、ふんとわざとらしく素っ気ない態度で雨音に背を向けると、そのままキッチンへと向かっていく。

 後ろからはクスクスと笑っていた雨音が「ありがとう」と小声で呟いたのが聞こえたけれど、俺はあえて聞こえなかったフリをした。

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