第9話 無条件の信頼

 ぼんやりとする意識の中で再び瞼を上げた時、リビングには斜陽の光が満ちていた。どうやらいつの間にか随分と眠っていたらしい。

 止まっていた思考と一緒に上半身を起こすと、はらりと見覚えのないタオルケットが身体から滑り落ちた。「あれ?」と寝ぼけた意識でそれを拾おうとすると、今度は聞き覚えのある明るい声が鼓膜を揺らす。


「お、やっと起きたか」


 顔を上げて声の聞こえた方をちらりと見ると、キッチンのところで立っている雨音と目が合った。


「えらいね。ちゃんとお留守番してくれてたんだ」


「……」


 夕陽に照らされながらにっと無邪気に笑う雨音に、「別にそんなんじゃねーよ」と俺はそっぽを向いて答える。そして「あっ」と肝心なことを思い出してすぐに言葉を続けた。


「それよりお前、俺のスマホ返せよ」


 そう言ってムッとした表情で雨音の顔を睨みつけると、なぜか相手はクスクスと肩を震わせ始める。この女……なんで人の携帯パクっといて笑ってんだよ。

 黙ったまま相手の顔を睨み続けていると、「ごめんごめん」と言いながら雨音は俺の方へと近づいてくる。


「やっぱバレちゃったか」


「当たり前だろ。あんな変なメッセージだけ残していきやがって」


 唇を尖らせながらそんなことを言えば、雨音は何が楽しいのか、プッと吹き出してズボンのポケットに右手を入れる。そして人質にされていた俺のスマホを取り出した。


「だってこうでもしなきゃ彰くんが勝手に逃げ出すかもしれないでしょ?」


「…………」


 どうやら沈黙が答えになってしまったようで、相手は「ほらね」とまるで小さな子供をあやすように俺の頭をポンポンと軽く叩いてくる。そんな接し方をされて恥ずかしくなった俺は、「やめろよ」と言ってその手をすぐに払いのけた。


「べつに俺がどこに行こうがお前には関係ないだろ」


「あっ、もう私が話した条件のこと忘れてるな。君は私の前から勝手に消えちゃダメだって昨日約束したじゃん」


「約束って……」


 腰に手を当ててわざとらしく怒った口調で言ってくる雨音に、俺は少し気まずくなって顔を逸らす。そういえばそんな条件も言っていたような気はするが……


 一向に自分のことを逃がすつもりのない雨音の態度に、俺は思わず小さくため息を吐き出した。すると雨音はここぞとばかりに言葉を続ける。


「それがちゃんと約束できないなら携帯は返さないよ? ほらほら、どうするどうする?」

 

 そう言って俺の目の前でスマホをチラつかせる雨音。そのあまりに楽しそうな表情を見て頭の中でカチンと音が鳴るも、ここでムキになってしまってはますます相手のペースに巻き込まれてしまう。それは余計にムカつくので絶対に避けたいところだ。

 そんなことを思った俺は握った拳にぐっと力を入れるたが、出来るだけ落ち着いた口調で言葉を返す。


「……わかったって。だから早く返せよ」


 ギロリと視線だけは鋭さをキープしたまま、俺はそう言うと右手を差し出す。するとそんな自分を見てクスリと笑った雨音が、「はい」と俺の手のひらにスマホを戻してきた。


「わかればよろし! それじゃあ私は美味しい晩御飯の続きを作るとしますか」


 ふふん、と雨音は自信たっぷりに大きな胸を逸らすと、そのままくるりと背を向けてキッチンの方へと向かっていく。そんな彼女の後ろ姿を見て、俺は思わずニヤリと口元を緩めた。

 バカだなアイツ、スマホさえ返してもらったらこっちのもので……


「ちなみに君の連絡先はちゃーんと登録しておいたから、勝手に逃げたしても無駄だからね」


「……」


 ふいにこちらを振り返り、ニコリと勝ち誇ったように笑う雨音。どうやら俺の作戦は見透かされていたようだ。


「てめー勝手に人の連絡先を見るとか卑怯だぞ!」


「そんなことないよ。だって彰くんにもしものことがあった時に必要でしょ? それに、勝手に人の部屋を覗こうとしたならおあいこじゃない?」


「なっ」


 突然不意打ちのような言葉を喰らってしまい、俺は思わず喉に言葉を詰まらせる。するとそんな自分を見て雨音がぷっと吹き出した。


「あ、さてはほんとに覗こうとしたんだ」


「…………」


 どうやらハメられたらしい……ってかこの女、ほんと性格悪すぎるだろッ!


 ケラケラと愉快そうな声を漏らしてお腹を押さえている雨音を鋭く睨みつけるも、墓穴を掘ってしまったのは自分の方なので何も言い返せない。すると指先で目元を拭った雨音が、けらりとした明るい声で言った。


「心配しなくても大丈夫だよ。彰くんはそんなことしてないって思ってるから」


「……なんでそんなことわかんだよ?」


 なぜか無条件に自分のことを信じてくる雨音に、思わず俺の方が疑いの眼差しを向けてしまう。

 まさか監視カメラで見ていたんじゃないだろうな? なんて余計なことを考えていたら、今度は雨音が大人っぽい微笑みを浮かべた。


「だって君は悪い子じゃないもん」

 

 落ち着いた声色で告げられた言葉には、一切の建前も疑いも感じられなかった。まるで静かな水面に小石を落とした時の波紋のように、その言葉は無条件に心の奥まで響いていく。

 

 ……なぜ雨音は、こうも俺のことを信じてくるのだろう?

 

 互いに昨日初めて顔を合わせた者同士。ましてや俺は誘拐されて連れてこられた人間だ。それなのに、雨音がこんなにも信頼を寄せてくる意味がわからない。

 そんな疑問を眉根を寄せた顔で表現していると、雨音はクスリと微笑んで再びキッチンの方へと向かっていく。そして、上機嫌に鼻歌を歌いながら美味しい晩御飯とやらの続きを作り始めた。

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