第14話
それから数時間が経ち、俺は本日の業務を終えて会社を後にする。
現在の時刻は17時を過ぎたぐらい。いつもに比べれば、早めに終わったと言える時間である。
今朝の予想通り、今日はそれ程に仕事は忙しくはなかった。なので、きっちりと定時で終える事が出来たのだ。
「これなら、香花を怒らせずに済みそうだな」
俺はそう呟き、心からホッと安堵する。
これで残業をする事にでもなっていれば、俺は人生の不条理さを嘆いていただろう。
そして遅くなった結果、香花を怒らせ、俺の人生は詰むのだ。
今まで何度となく考えてきたが、それを考えただけで悲しくなる、最悪な展開だ。
そんな人生を送るのは、ごめん被りたい。絶対に嫌である。
全く……何で俺はこうも、まるで恋愛ゲームを攻略する様な生活を送っているのか。俺は普通の生活を送りたいというのに……。
しかし、この時間に終わったのなら、そんな展開にはなりはしない。
後は昨日に損ねてしまった香花の機嫌を、今日で取り返し、良くしてしまえばいいのだ。
さしずめ、汚名挽回といったところだろうか。いや、汚名返上だったか。まぁ、どちらでもいいか。
とにかくは何とか奮闘して、香花が狂行に走らないようにすればいい。
言葉にすると簡単に見えるが、実際に行動に移すと実現するのは難しい。そんな難易度の高いミッションである。
「まぁ……頑張るか」
これまでもしっかりと、彼女に対応し、順応してきているのだ。なら、大丈夫なはずである。
不安ではあるが俺はそう自分に言い聞かせて、足を前にへと進めていく。
向かって行く先は、俺の帰る家であり、香花の待つ自宅である。
彼女との約束を守るべく、早くに帰ってしまわないと。
そう思って足を進めていた俺だが、会社を出てから数十秒経ったところで、俺はその歩みを止める。
急いでいたにも係わらず足を止めたのは、携帯に着信が入ったからだ。
初期設定の着信音が鳴り響き、俺に電話が入った事を伝えていた。
俺はスーツのポケットの中から携帯を取り出すと、誰からの着信かを確認しないまま、携帯を耳に当てて電話に出る。
電話の相手なんて、見なくても分かっている。このタイミングで電話してくるのは、彼女ぐらいしか考えられない。
「もしもし……」
『あっ、まーくん。お疲れ様!』
携帯から聞こえてくるのは、聞き慣れた彼女の声、香花の声だった。
いつも聞いている以上に声が弾んで聞こえるのは、彼女の機嫌が良いからなのかもしれない。
『ちゃんと約束通り、早く終わってくれたんだね』
「そうだな。何とか終われたよ。今朝に香花と約束してたからな」
『えへへ♪ 嬉しいなぁ……♪』
電話越しで会話をしているので、彼女が今、どんな顔をしているかは俺には見えない。
けれども、声を聞けば相当に喜んでいるのだと、見なくてもそれは分かる。
約束をしっかりと守った事で、香花からの信頼を取り戻せた証拠だ。
それはそうと、何で香花は俺が会社を出たタイミングで電話を掛けれたのか。
これは偶然でもなんでもない。香花は分かっているのだ。俺が会社を退勤したという事を。
確信的に、彼女が意図して俺にへと電話を掛けているのだ。
別にこれは、彼女が会社の近くで俺を監視し、出てきたタイミングで電話を掛けている訳ではない。
周りには香花の姿は見えないし、気配は感じられない。ここにはおらず、家で待っているのだから当然である。
なら、何故にそのタイミングが分かるのかというと、実に簡単な話である。
香花は携帯の位置情報を使い、それを把握しているのだ。便利に過ぎる機能を駆使し、悪用しているのである。
それがあれば、俺が移動した事ぐらいは直ぐに分かる。もっと言えば、その時の時刻や向かう方向さえ分かれば、彼女は俺の行動が分かるのだという。
流石は俺の元ストーカーだ。その辺に関しては彼女の右に出るものはいないだろう。……いたらいたらで困るが。
だからこそ、このタイミングで彼女は電話を掛けてこれたのだ。分かっているからこそ、出来る業なのだ。
何も彼女は、俺の帰りをただ待っている訳ではないのである。家にいながらも、俺の事をしっかりと監視しているのだ。
『じゃあ、早く帰ってきてね。私、待ってるから』
「あぁ、そうだ。その事なんだけど……」
待っていると言った香花に対し、俺はそう言って口を挟む。
このまま帰っても良かったが、彼女の機嫌を良くする為にも、今朝に津田から提案された作戦を実行したいと思ったからだ。
あの後に色々と参考になる事を彼女から聞いているので、大体の目処は立ててある。
なので、それを実行する為の時間が、今の俺には必要だった。
その許可を貰いたくて、俺は香花にそれを言おうとしたのだが―――
『待ってるから、よろしくね♪』
彼女は一方的にそう宣告した後、無情にも通話を切ってしまった。
携帯からはツー、ツー、と電話が切れた事を知らす音が何度も鳴っている。
待っていると香花は言っていたが、俺からの提案を、彼女は一切待ってはくれなかった。ほぼ即切りである。
「……そういう事ね、うん」
要するに、早く帰ってくる以外の選択肢は絶対に許さない。
彼女は暗に、そう言いたいのだろう。そして異論は認めないのだと。
「まぁ……仕方ない、か」
俺はその決定を受け入れると、必要の無くなった携帯を再びポケットの中にへと戻す。
それから香花の待つ自宅に向かって、また歩みを進めていく。
残念ながら、あの作戦を実行する機会は、また今度のようである。
教えてくれた津田には悪いとは思うが、こればかりはどうしようもなかった。
別に少し寄り道をして、直ぐに買い物を終わらせれば済む事かもしれない。
しかし、俺の位置情報は彼女によって把握されている。
監視されている以上、どこかに寄ろうものなら、一発で彼女に知られてしまう。
それを見た彼女がどう思うのか、考えるまでもない。間違いなく、『裏切られた』だ。
本来なら香花の機嫌を良くする為のプランなのに、そうなってしまっては本末転倒である。
だからこそ、仕方ないのだ。今回は諦めるしかない。
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