第5話

 



「……それじゃあ、行こっか」



「行こうかって……へ?」



 彼女はそう言うと抱きつくのを止めて、俺の側から離れていく。そして地面に落ちた出刃包丁を拾うと、それをポーチの中にへとしまった。



 そんなところに入れていたのかと、俺は思うのと同時に、どこへ行くというのかという疑問が生まれる。



 その疑問を投げ掛ける前に、彼女は俺を置いてどんどん動き出す。ルンルン気分な足取りで歩いていき、彼女はある場所で動きを止めた。



 彼女が止まった場所は、俺の自宅の玄関の前であった。



「ねぇ、早く入ろう?」



 そう言いつつ、彼女は扉のドアノブをガチャガチャと何度も動かし、早く開けろと催促をする。



「何時までも外で立ち話しているのも疲れちゃうから、中で存安くんとゆっくりお話したいな」



 どうやら彼女は家の中に入れろと要求しているのだ。



 急過ぎる行動や自分本位な提案をしてくる彼女のせいで、頭が痛くなってくる。



「いや、その……ちょっと待って欲しい」



「えっ?」



 俺からの呼び掛けに対し、彼女はきょとんとして首を傾げていた。



 流石に話の展開が早急過ぎて、俺が全くといって追い付けていない。ここは少し待って欲しかった。



 しかし、ここはどうしたらいいものか。

 どうにか惨劇は回避できたのだが、またも苦難が俺にへと振りかかっている。



(付き合ってから直ぐに家の中に入れろとか……行動力がぶっ飛んでるな……)



 まぁ、付き合わないと自殺しようとしていたのだから、行動力うんぬんは今更かもしれない。



 だが、ここで彼女の要求の呑むべきなのだろうか。



 本音を言えば、彼女を中には入れたくは無い。



 まだこの時点では彼女の事を全く知らないし、入れるにしたって室内が散らかっているというのもあり、それは受け入れがたい要求だった。



(けど、断ったらまたおかしな行動をするかもしれない……)



 そう、俺はそれが怖かった。要求を拒否した場合、彼女が何をしでかすかは分かったものではない。



 ポーチに入れた出刃包丁を再び取り出し、暴れだすのではないかと不安にもなる。



(……いや、でも駄目だ。ここでも彼女を受け入れていたら、主導権は完全に彼女のものになってしまう……)



 もう手遅れかもしれないが、少しでもいいからこちらも主導権を握っておきたかった。



 だからこそ、今度こそ俺は意を決して彼女に告げる。それは無理な相談であると。



「えっと、悪いけど……俺達ってまだ付き合い始めたばかり……だよね?」



「うん、そうだけど?」



「だからさ、あの……そういうのはまた今度にして貰えない、かな?」



 男らしく断りたかったが、彼女に対する恐れからかこんな言葉になってしまった。



 けれども、否定の意思は相手に伝える事が出来た。後は相手の出方次第となる。



「……入れて、くれないの?」



「えっと、まぁ……そうなる、ね」



 微少ながらも罪悪感を感じてしまうが、それは頑張って無視する。ここで自分の意見を曲げてしまう訳にはいかない。



 俺自身の安全と安心の為にも、ここでは彼女に屈指はしないのだ。



「……そっか。そう、なんだ」



(分かって貰えただろうか……)



 見るからにしゅんとする彼女の姿を見て、何とかなったかと期待してしまう。



 しかし、その期待は彼女の発した言葉によって直ぐ様砕け散る事となった。



「でも、入れてくれないと……私の帰る家が無くなっちゃうよ?」



「……帰る家が、無い?」



 完全に予想外の言葉であった。こんな事態は完全には想定していない。いや、今までも想定出来てない事ばかりだったけども。



 だがしかし、これは彼女による虚言なのかもしれない。普通であれば誰にだって帰る家は存在しているはずだ。これまで生活していた拠点は必ずしもあるだろう。



「ちょっと待って。君が今まで住んでた家は……?」



 それをはっきりさせる為にも、俺はその疑問を彼女にへと投げ掛ける。



「無いよ」



 けれども、それは彼女によってきっぱりと否定された。一言で簡潔にである。



「……は?」



「さっきね、解約してきちゃったから。もう無いよ」



 その言葉を受けて、俺は唖然としてしまう。どういう事なのか、まるで分からなかった。



「家具とかも全部売り払っちゃったから、今更戻れないんだ。だから、これが私の持っている全てなんだよ」



 彼女はそう言うと先程のポーチと、何時から置いてあったか分からない、玄関の横に置いてあったキャリーケースを俺にへと見せてくる。



 本当にこれしか無いのだとアピールをしているのだろう。



 つまり、彼女は……最初から俺の家へと入る為に、身の回りのほとんどを捨て去ってここに来たという事なのか。



 そして最悪の場合、自分の命すら捨てようとしていたのだから、どれだけの覚悟を持って俺の前にへと現れたのか。



 いや、はっきり言ってその想いは重過ぎる。彼女の愛は俺の許容量を遥かに超えてしまっている。



「だから、早く入れて欲しいな」



 というか、良く考えれば彼女が言っているのは家に入れろという単純な事では無かった。彼女が要求しているのは、ここに住ませろという事なのだろう。



 いや、付き合った初日に同棲が始まるとか、どんな展開なんだろうか。今日日漫画とかでも見ない展開だと思う。



(ここは断りたいが……けど)



 彼女は言ったのだ、もう帰る家は無いと。ここで断れば、彼女はどこに行くというのか。



(ホテルとかには……行ってはくれないだろうな)



 お金を渡し、彼女にはどこか近くのホテルに泊まって貰うという方法も考えた。



 が、それを彼女が素直に従ってくれるとは思えない。確固たる意志を持って、俺の家にへと入ろうとするに違いない。



 もう彼女を受け入れた時点で、俺はどうする事も出来ないのだろう。何を考えたとしても、無駄なのかもしれない。



 少しは残っていると思っていたが、完全に主導権は彼女の手中にあった。俺に出来る事といえば、彼女からの要求に従順になるしか無いのだろう。



(ここで騒ぎを起こされても困るし、仕方ない……)



 こうなってしまっては諦めも肝心なのかもしれない。俺はそう腹を括ると、ため息を吐きつつ玄関にへと近付いていく。



 そしてポケットの中から鍵を取り出すと、玄関の前にいる彼女は開けて貰えるのだと察してか、扉の横にへと避ける。



 誰もいなくなった玄関の前に俺は立つと、取り出した鍵を手馴れた手つきで差し込み、錠を開けた。



「……これで、いいか?」



 差し込んだ鍵を抜きつつ、俺は彼女に向かってそう言うと、香花はにこにことしながら俺の事を見ていた。



「うん、ありがとう♪」



 俺が彼女の要求を素直に呑んだ事を、嬉しく思っているのだろうか。何であろうが、上機嫌な事には変わりはないだろう。



 今後の事を考えると、俺が平穏無事に過ごそうものなら、彼女の機嫌を損ねない事が必須だろう。



 その為には彼女に対する好感度稼ぎをしていかなければ。それはどんな単純な事だっていい。



 そう考えた俺は玄関の傍らに置いてあったキャリーケースの持ち手を掴む。そしてそれを家の中にへと運んでいく。



「持っていってくれるんだ。優しいね」



 背後から彼女の喜ぶ声が聞こえてくる。こんな事で機嫌を良くしてくれるのなら、安いものである。



 とにかく、彼女の逆鱗には触れない様に気をつけないといけない。もし、触れたりしたら……俺の脳裏には出刃包丁の影が過ぎった。



「お邪魔します……じゃないよね。ただいま、存安くん♪」



「うん、おかえり……」



 先に家の中にへと入っていた俺は、そう言って入って―――帰ってきた彼女を出迎える。



 このやり取りを経て、俺と香花の同棲生活が始まったのだ。正直、思い出としては最悪なレベルである。



 こんな形で彼女を作り、彼女と同棲生活を送る事になろうとは、青春時代に夢を見ていた俺からすれば思いもしなかっただろう。今の俺でも思わないのだろうから。



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