第6話

 



「えっと……散らかってて悪いけど、ここに座って」



 キャリーケースを部屋の適当な場所に置いた後、俺は彼女を自室にへと招き入れる。



 一応、来客用に買ってあった座布団を押入れの中から取り出し、それを床の上に置いて彼女に座って貰う様に促した。



 彼女と話す為に自室を選んだのは、特に深い意味は全くといって無い。強いて言うのなら、そこが一番片付いている部屋だったから。それだけの理由である。



 ただ、今後は誰が来ても良い様に室内は片付けておこう、とそう心に俺は誓った。



「えへへ……ここが存安くんの部屋なんだぁ」



 彼女は座布団の上に座ると、辺りをきょろきょろと見回して何やら物色をしている様だった。



 その表情は完全に緩みきっており、とても幸せそうに見える。しかし、俺にはその良さがあまり分からない。



 綺麗に整頓されている部屋ならともかく、本の一部が散乱し、畳まれていない衣服が置いてある部屋を見て、果たして嬉しいものなのか。



 いや、これに関しては完全に俺の落ち度である。日頃から片付けをしていない俺が悪かった。



「あの……そんなに見て、楽しい?」



 一応、俺は彼女に向けてそう聞いてみる。申し訳なさからもあるが、少しは気になったというのもある。



「うん、楽しいよ。だって、大好きな人の部屋の中だからね」



 大好きな人。その言葉を聞いて俺は少し動揺する。



 脅迫されて付き合う事になった関係であるが、そういう事を言われてしまうと悪い気がしなかった。……ちょっとだけだが。



「それにね。ここにいるだけで、存安くんの匂いに包まれるんだよ。だから、とっても幸せ」



 そして油断をしていたらこれである。やっぱりそうだよなと自然と納得がいく回答であった。



「ねぇ、存安くん。ちょっと上着を借りてもいいかな?」



 それから唐突な追加の注文もきてしまった。この流れはもう既に慣れてしまっている。



 彼女に適応出来ている事を素晴らしいと思うべきか、悲しむべきなのか……俺には判別は出来ない。



 とりあえず……貸す事はほぼ確定してはいるが、一応であるがその理由を聞いておく事にする。



「えっ、何で……?」



「何だか少し……肌寒くて。駄目かなぁ?」



 彼女はそうは言っているが、気温としてはそこまで今は低くはない。俺からすればちょうど良いぐらいなのだが、彼女からすれば違うのだろうか。



 けれども、彼女の着る服を見てみるがそこまで薄着という訳でも無い。防寒としては十分にできているはずだ。これ以上着込んでも大して意味はあるだろうか。



 そう考えて俺は代案を出してみる。幸いにもこの部屋には暖房機器が備わっている。それを使えば肌寒い問題は解決出来るだろう。



「いや、それだったら暖房でも着けるけど……」



「そこまでしなくても大丈夫だよ」



 しかし、俺からの代案は呆気なく棄却された。



「電気代も掛かるし……上着を貸してくれれば済む事だからね」



 そんな事はどうだっていいから、早く上着を貸してくれ。



 彼女からの訴えにはそんな響きが不思議と伝わってきた。提案だろうが代案だろうが、彼女は許してはくれないのだろう。



「……うん、そうだね。分かったから」



 上着を彼女に貸してもいいと、俺は許可を出す。実際には差し出しているという形になっているが。



 俺もいい加減疲れてきたので、彼女の向かいにあるベットの上にへと腰を下ろした。



 ここまでの間でそれ程時間の経過はしていないが、ドッと疲れた様に思えるのは恐らくは気のせいでは無いだろう。



「それじゃあ……これを借りるね」



 そうしている内に、彼女は畳まれていない衣服の中から一着を取り出し、それを羽織っていた。よりにもよってそれは、仕事で使うYシャツであった。



 肌寒いと言っておきながら、何故に薄い生地であるそれを選んだのか。しかもそれは明日に着ようと思っていた一着である。それを羽織るのは勘弁して欲しかった。



 けれども、許可を出してしまった以上、俺は彼女には逆らえない。



 結局はそれを見過ごす事とにするのだった。下着を選ばなかっただけでも、良かったと思うべきだろう。



 さて、お互い座って準備も出来た事であるし、そろそろ話を進めていこうと思う。



 議題はそう、俺達の今後の事である。



「その……愛澤さん、で良かったよね?」



「……違うよ」



「……えっ?」



 話を進めようと俺はさっき聞いた彼女の名前を口にしたのだが、何故か違うと言って彼女は自分の唇を尖らし、何やらご不満な様子であった。



 いや、名前に関しては間違ってはいないはずだ。愛澤香花と自己紹介の時に聞いた名前を俺はしっかりと記憶している。



 なら、俺は何を間違えたというのだ。



「違うって、その……何が?」



「だって、愛澤さんだなんて……何だか他人行儀でやだ」



「あっ、そういう……」 



「呼んでくれるなら、下の名前の方がいいなぁ」



 他所他所しい呼び方だったから、彼女は不満だったのだ。いや、つい数時間前までは他人の間柄だったので、それは仕方の無い事だと思う。



「あっ、そうだ。どうせなら、可愛く『きょうちゃん』って呼んでくれてもいいよ♪ 存安くんにそう呼ばれるなら、大歓迎だよ」



(いや、あだ名はまだ早くないか……)



 何かと段階を飛ばし過ぎではないのかと、俺は率直に言ってしまいたい。



 交際や同棲の事を考えると、言っても意味は無いだろうけれども。



 既に何度も通過するであろう段階をすっ飛ばしているので、無駄なのかもしれない。



 ただ、あだ名呼びはまだ流石に早過ぎる。まだ彼女の名前と行動性しか分かっていないのに、そんな馴れ馴れしくする事は俺には無理である。  



「じゃあ……香花、でいいかな」



 僅かな希望を信じて、俺は彼女の名前を口にする。これで駄目ならば、諦めてあだ名で呼ぶ事にしよう。



 すると彼女は数秒間黙った後、笑顔で俺にへと頷いた。



「うん、いいよー♪ これからは、私の事をそう呼んでね♪」



 彼女の答えは肯定。すなわち、それで大丈夫との事だった。今まで全くといって許可を得られた試しが無かった為、この成果は感慨深く感じてしまう。



「それなら私は……存安くんの事を『まーくん』って呼ぶね♪」



「あっ、はい。どうぞ……」



 その辺に関しては、俺としてはとやかく言うつもりは毛頭無い。どうせ何かを言ったところで、彼女の意見が採用されるのだから。



 彼女がそう呼びたいのなら、そう呼べばいいのだ。俺はそれに対して全面的にOKであると答えよう。



「ねぇ、まーくん」



「うん?」



「名前……呼んでくれる?」



「……香花」



「……えへへ♪」



 要望通りに俺が彼女の名前を呼んでみると、香花ははにかんだ笑顔を俺にへと向けてくる。その笑顔はこれまで散々と脅迫されてきた俺でもドキッとさせる威力があった。



 何度か見てきた笑顔だが、これだけ見ればやっぱり可愛いと思えてくる。



 ……早速、彼女に毒されてきているのだろうか。いや、これはいけない。



 気を抜けば一気に飲み込まれそうな感じがしれならないので、油断は禁物である。



「嬉しいなぁ。こうして名前を呼び合ってると、恋人らしいよね」



「ま、まあね」



「今後はもっともっと、恋人らしい事をしていこうね♪ 楽しみだなぁ♪」



 きっと彼女の脳内では、色取り取りの夢や妄想が数多く膨らんでいるのだろう。



 気になるところではあるが、あまり聞きたいとは思えなかった。どんな不穏な事を考えているのだろうかと思うと、聞くに聞けない。



 香花が主導権を握る事は間違いないだろうけど、俺にも少しは恩恵がある事を期待したいところである。



 まぁ、でも。彼女目線においての俺の幸せになるのだから、望みは薄いのかもしれない。



 100%とはいかなくても、せめて僅かでもいいので意見が通せるぐらいには発言力を高めていきたい。



 ……彼女がそれを許してくれればの話であるけれども。



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