第11話
数分後。朝食を食べ終えた俺は、三年目ともなる着慣れたスーツに袖を通し、通勤用の鞄を手に持って自宅から出て行った。
もちろん、出る時は香花に見送られてである。『いってらっしゃい』と、声を掛けつつ、右手を振って見送ってくれたのだ。
ちなみにこれ、出勤するものなら例外無く、いつもしてくれるのだ。
当然ではあるが、近隣住民や同じアパートに住む人達には、こういったやり取りや彼女の存在は、もう既に知れてしまっている。
通勤なり、買い物なり、散歩なり、ゴミ捨てだとか。それぞれに様々な用事で外出しようとする時に、見られてしまっていたのだ。
半年も期間が経てば、知られていない事の方がおかしいのかもしれない。
出来れば無関心で、知らぬ存ぜぬとスルーして欲しかったが、俺が住む地域は都会というよりかは田舎と呼ばれるに相応しい区分である。
残念ながら、ご近所付き合いという文化がある以上、香花と同棲しているという事実は、俺の意思に関係無く広まってしまったのだ。
例えば俺がゴミ捨てに行き、そこで近所に住む顔見知りの主婦に会うものなら―――
『可愛い彼女さんがいるのね』
と、揶揄われる始末である。
隣に住む、歳が一回り以上も離れた独身男性からは―――
『その歳で彼女と同棲なんて、羨ま―――けしからんぞ!』
と、嫉妬の言葉をストレートにぶつけられた。
ちなみにどの人物とも、それ程に関わりというものを持った事は無い。精々、挨拶を交わすぐらいの付き合いだ。
ただ顔を知っているだけ、そんな関係しかない。それ以上の関係は構築はしていない。
だからこそ、俺と香花の間柄は表面的にしか見えない。今の様な見送る場面を見れば、『ラブラブなカップルだな』と、そういった感想を抱くだろう。
しかし、それは紛れも無く、事実とは異なる感想である。現実はそうでは無いのだから。
俺は香花からの脅迫に屈し、泣く泣く彼女と付き合う事になってしまった。これが正解であり、事実なのであった。
だが、例え事実が噂と異なっていたとしても、皆が真実に興味を持つかと言えば、持たないだろう。
何故なら、本質的な部分では、当事者以外の人間はそれに対し、興味を持ってはいないのだから。
ただ近所アパートにそういったカップルがいる。そうした噂を聞きつけ、それが事実であると誤認し、話の種として会話に花を咲かせているだけなのだ。
そんな誤解が近隣で広まりつつはあるが、俺も今更、それを否定して回る様な事はしない。だってそれは、無意味なのだから。
否定したところで、相手も本当は興味はあまり無いのだ。それを必死になって違うと説いたとしても、どうだっていいだろう。
そんな事に労力を費やすだけ、はっきり言って無駄なのだ。だから俺は否定もせずに肯定もせず、ただ曖昧に受け答える事で今日までの半年間を過ごしてきた。
「はぁ……」
ただ、そうだとは思ってはいても、疲れるものは疲れる。気苦労からか自然とため息を吐いてしまった。
「もっと香花が普通だったらなぁ……」
誰に言う訳でもなく、愚痴すらも勝手に零れる。例え、神様に彼女を普通にしてくれと願ってみても、それは叶わなぬ願いだ。
香花は香花であり、あの性格や行動性を含めて彼女なのだから、それが急に変わる事は考えられない。
しかし、惜しむべきは彼女の異常な部分以外の良さについてである。
ストーカーしたり、出刃包丁で脅したり、荒縄で拘束したり。そんな異常な行動を除けば、香花は素敵な恋人だと誇って言えるだろう。
家事は問題なくこなせるし、料理も申し分なく美味しい。嫉妬深い面もあるけれども、それは可愛さとして受け止めればいいのだから。
何より彼氏である俺の顔を立てた上で、かなり尽くしてくれるのだ。理想の彼女と言っても差し支えは無いだろう。
そうして考えれば良くは見えるものの、やはりそれ以上に異常性が目立ってしまうのだ。これには惜しいとしか言いようがなかった。
「はぁ……どうにかならないものかな」
俺はそう呟きながら、本日二度目のため息を吐く。どうにもこうにも憂鬱な気分が抜けきらない。
そんな気分のまま、俺は会社までの道のりを歩いていく。
会社と自宅との距離は近く、普通に歩けば10分程で辿り着けるぐらいである。なので、出社する時は歩いていくのが常であった。
自転車や車を使えばもっと早くに会社に着けるのだが、残念ながらどちらも俺は持ってはいない。一応、免許は持っているので、運転する事は出来る。
あれば便利かもしれないが、こうして歩いた方が維持費も掛からずに安上がりでもあるし、何よりちょっとした運動にもなる。
時間が無い時は流石に難しいが、のんびりと周りの風景を楽しみながら歩くのも悪くは無い。それが好きでもあるから、徒歩通勤を選んでいるのもあった。
そして今日はまだ、時間的には余裕はあった。俺はペースを緩めて、ゆっくりとした足取りで会社にへと向かっていく。
その道中である。ちょうど自宅と会社の中間に当たる位置、そこにはそこまで大きくは無く、かといってそれ程に小さくも無い、そんな川が流れている。
上にかかる橋をいつも渡り、俺は会社にへと向かっていくのだが、今日はあるものを見つけた事で、橋の真ん中辺りでその歩みを止めた。
それは川沿いに植えられた木々。全て同一の種類であるそれらは、この国に住んでいれば誰もが一度は見た事のあるであろう樹木であった。
「ようやく、桜が咲き始めたのか」
そう、桜である。この時期になると淡紅色の綺麗な花を咲かせる、春を象徴する木である。
満開とまではいかないが、それが花を咲かせ、川沿いの風景に彩りを与えていたのだった。
この道は毎日歩いてはいるものの、今年はまだ花を咲かせている光景は目にしていなかった。
蕾がついていた事は知ってはいたが、それがようやく今日になって花開いたのだ。
「これを見ると、春がきたって感じるな」
春。新生活の時期。新しい職場やら学校に通い始め、心機一転に頑張ろうと思える季節。
これを見たものはさぞかし、胸を躍らせ、新たな生活に期待感を膨らませるであろう。
「……はぁ」
しかし、俺はそうはならなかった。膨らんだのは空気を吸った肺であり、それが大きなため息となって吐き出された。
確かに、目の前に広がる景色は美しいものである。だが、俺の憂鬱な気持ちを晴らすには至らなかった。
香花の事を考えてしまうと、とてもじゃないが新鮮な気持ちになどなれなかった。
「本当、どうしたものかな……」
半年耐えれたのなら、もう半年も大丈夫なはず。そうは思っていても、香花の行動は日々エスカレートしていくばかりである。
それに耐えれるかどうかは、俺には分からなかった。少しでも体験した事や、見聞きした事であれば、多少の予測はつく。
しかし、香花の行動は全てが未知のもので、予測なんて出来る訳が無いのだ。
それこそ最終的には、俺は監禁されてしまうのではないかと考えてしまう事もある。
今の自宅なのか、それとも他の場所なのか。どこかしらに俺は閉じ込められ、彼女がいなくては生きていけなくなってしまうのだ。
そう考えると、ゾッとしてしまう。それは最早、人間的な生活では無い。ある意味ペットを飼育している様なものであった。
「絶対に、それだけは避けたい……」
そうは言っても、具体的な回避策は全くといって浮かんでこない。半年間考えてきても、有効な手立ては思いつかなかった。
「とりあえず……直近の課題は、早く帰れるかどうかだな」
先の分からない未来の事を考えるより、今日の現在直面している事態に目を向ける。
指切りをしてまで交わした約束事。それを破ったのなら、俺は即刻監禁ルートにへと直行するだろう。そうすれば見事にバッドエンドである。
そうならない為にも、今日は残業は出来ない。あったとしても、避けなければならない。
その事を頭に入れて、俺はまた会社への道のりを歩いていった。
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