第12話
「おはよう……」
低くくぐもった声。精気の満ちていない、覇気の無い真っ青な顔。そして目元にはクマが色濃く表れている。
会社に出社するなり、俺を出迎えたのはそんなゾンビみたいな男だった。
「お、おはよう」
戸惑いながらも、俺はそう挨拶を返す。ゾンビみたいだとはいえ、それが誰なのかは俺も分かってはいる。
とても酷い顔をしているが、こいつは同僚の神谷だ。恐らくは二日酔いのせいでこんな事になっているのだろう。
昨日の帰りの際には、もう完全に酔い潰れていて意識も無かった。無理矢理にタクシーに詰め込んで、帰らせたのだから良く覚えている。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫じゃない……正直、まだ吐きそう……」
鞄を俺の事務机の上に置き、椅子に腰掛けながら聞くと、神谷はそんな事を言ってきた。
「いや、ここで吐かないでくれ……」
「それくらい、分かってるよ……」
俺の隣に座る神谷は青い顔のまま、いかにも苦しそうに頭を抱えている。吐き気もそうだが、頭痛も辛いのだろう。
それにまだという事は、ここに来るまでに吐いてきているのだと思う。家に帰ってからも、吐いてたかもしれない。きっと、そうだろうけども。
「吐き気がやばくて昨日はほとんど寝れてないし……本当に、最悪だ」
「お前な。元々が弱いくせに、飲み過ぎるからそうなるんだろ」
「そうは言ってもさ……飲まない訳には、いかないだろ……」
「加減をしろって言ってるんだ。自分のペースを考えずに、相手のペースに合わせるからいつも早々に潰れるんだって」
それに加えて、この神谷という男は酒が弱いのにも係わらず、酒が好きなのだという。しかも飲むなら飲むで、アルコールの強いものばかりを好むのである。
弱いのなら果実酒あたりを少しずつ飲んでいればいいものを、身の程知らずと言うべきか、テキーラやウィスキー系の酒をやたらと注文するのだ。
酷い時は場を盛り上げる為なのか、ショットで飲み始める。気持ちは分からないでもないが、そのせいで早くに潰れるのなら、止めた方がいいと俺は思う。
「それが出来てれば、こんな事にはなってないっての……」
「だから、学習しろって。これで何度目だ?」
「あぁ……どんなにアルコールを入れても、負けないくらいの強靭な肝臓を、誰か俺に移植してくれ……」
「馬鹿な事を言ってないで、いいから水でも飲んどけ」
神谷の机の端に置いてあったペットボトルの水を、俺は神谷の目の前にへと置く。出社途中で買ってきたものなのか、中身は既に半分は減っている。
「……すまんな、依田」
そう言ってから神谷はペットボトルの蓋を開け、中の水を飲んでいく。体が水分を求めているからか、見る見るうちに中身は減っていき、数秒もせずに空となった。
「あぁ、ちょっとは生き返る……」
空になって用済みとなったペットボトルを、神谷は自分の机の下にあるゴミ箱へ捨てる。そして自分の鞄の中から次の水を取り出した。
一本では足りないと予測していたのか、どうやら数本は買い込んでいたのだろう。
「そういえば……昨日は悪かったな」
「悪かったって、酔い潰れた事か? それならいつもの―――」
「いや、その事じゃない」
酔い潰れた事を俺は言っているかと思ったが、神谷に否定された。どうやら違う様である。
「ほら、お前の彼女の事だよ」
「……あぁ、そういう事か」
なるほど、そっちの事だったか。確かに神谷は昨日、酔い潰れた勢いで俺の秘密を上司に暴露している。
隠していたというのに、俺が香花と付き合っている事をうっかり口にしてしまったのだ。
「あの時は殴り倒してやろうかと思ったぞ。マジでふざけるなって」
「……本当に、悪かった」
「本気でそう思ってるのか?」
「マジで、スマン」
俺の方に体を向け、神谷は平謝りに謝った。酔った勢いとはいえ、あれは許されない事である。
しかし、言ってしまったものはもう仕方のない事である。どれだけ謝られても、時は戻せはしないのだから。
「次は気をつけろよ」
本当は許したくはないところであるが、そう言って俺は水に流す事にした。
それを聞いた神谷は青い顔をしたまま、ホッとした表情を見せる。許された事で安堵したのだろう。
「それにしても、あれだな。お前も大変だよな」
「大変って……何がだ?」
「あんな彼女を持つと、苦労するよなって話」
「……分かってくれるか」
俺はそう言いつつ、重くため息を吐いた。
神谷は香花の事を知っている。それも彼女がストーカー時代の頃からである。何たって俺がストーカー被害の相談をしていたのだから。
香花と付き合い始めてからは直接の面識もある上に、俺が偶に愚痴を零してもいるので、分かっているのだ。
「昨日もあの後、苦労したんだぞ。帰ってくるなり襲われて、拘束されて、ありもしない浮気を疑われてさ……」
「それは……大変だったな」
「今日は今日で、遅くならないでと釘を刺されてるしな。破ったらどんな事をされるか分からん」
「そ、そうなのか……」
「本人には悪気は無いのは分かってる。俺の事を純粋に想ってくれてるのも分かる。けどさ……」
重過ぎるのだ。俺にへと向けてくる愛が許容量を超えている。それが問題なのだ。
とはいえ、俺がそれを受け止めれる程の器のでかい人間になればいい訳でも無い。というか、なれやしない。
どこまでいっても、俺は平凡な男であり、小市民でしかないのだ。だから困っているのである。
「まぁ、でも……可愛いところも、あるんだろ?」
「それは否定しないが……」
可愛いは正義。それで許されるのなら、大間違いだ。
可愛いからって、俺は荒縄で拘束されて喜びはしない。あれはあれで、ただただ苦痛なのだ。
「なぁ、神谷。俺さ……これからどうしたらいいと思う……?」
「……スマンが、俺には分からん」
「だよな……」
困り果てて、俺は頭を抱えた。隣の神谷も、二日酔いのせいで頭を抱えている。何だろう、この構図は。
どうしようも無い同士の俺達は、同時に重々しくため息を吐く。
ここら一帯だけ、幸せの気配は全くといってありはしなかった。
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