第10話

 



 シャワーを浴びた後、身支度を済ませてから俺は台所にへと顔を出す。



 起きた直後にはまだ眠気は残っていたが、シャワーを浴びた今ではスッキリと目が覚めた状態である。



 これで会社に出掛ける準備はほぼ完了した。後は朝食を食べて、エネルギーを補給するだけだ。



「あっ、まーくん。朝ご飯、もう出来てるよ」



 既に準備は終えているのか、テーブルの上には香花の作った朝食が立ち並び、彼女も席に着いていた。



「あぁ、ありがとう」



 俺も彼女と向かい合う様に、反対側の席にへと腰掛ける。彼女が台所側、俺が部屋側の席にそれぞれ座った。



 こうした席位置はこの半年間でほぼ決まっていた。香花が台所側に座るのは、作った料理の配膳や、片付けのしやすさやからである。



「いつも悪いな、香花」



「ふふっ、そんな事はないよ」



 食事をする前に、彼女に労いの言葉を掛けるのも忘れない。それは彼女の機嫌を取る為だけではなく、感謝の気持ちを伝える為の、当然の行動だ。



 実際のところ、家事に関して香花は本当に良くはやっていると思う。目の前に並ぶ朝食を見れば、それは一目瞭然である。



 炊き立ての白米に、湯気が立ち上る味噌汁。それから健康を考えたサラダに、シンプルではあるが半熟で焼かれた目玉焼き。



 しかも目玉焼きは俺の好みに合わせて、白身をカリカリに焼いてくれてある。俺の好みを把握した上で、それに沿って料理を仕上げてくれるのだ。



 俺がまだ一人暮らしの時であれば、この様な食事が並ぶ事は無かった。



 料理を作れる事は作れるものの、手間を考えればここまでは用意は出来ない。



 それこそもっと簡易的に作れるインスタント食品。もしくはもう既に調理をされている、惣菜やパンばかりを食べていた。



 それらは便利でもあったし、出勤しながらでも食べれる事もあって選んではいたが、今はもう、食べる事は極端に減っている。



 香花が家事をする様になってからは、それをわざわざ選んで食べる必要が無いのだから、変わっていくのも当たり前な流れである。



 俺を困惑させる彼女ではあるが、こういった面では助かってはいる。だからこそ、こういう時には感謝をしなければ。



 そして俺と香花は『いただきます』と言った後、目の前の料理に手をつけ始めた。



 この後に仕事が控えている為、ゆっくりと落ち着いて食べている余裕はあまり無い。一口一口を多めに取り、俺はそれを口の中に運んでいく。



 周りからはよく指摘されるが、俺は結構早食いな方である。学生時代に食事以外に時間を多く取りたかった為、自然とそういった食べ方が身についてしまったのだ。



 そうした癖が今でも尚、残っている。ちょっとした悪癖とも言っていいかもしれない。



 それとは対象的に、香花は少ない量をよく噛んで食べている。俺と比べれば少食な彼女はそうして食べるのである。



「どうかな、まーくん」



 食事を始めてからある程度の時間が経った後、食べていたサラダの野菜を飲み込んでから、香花はそう聞いてきた。



「うん、今日もおいしいよ。流石だな」



「えへへ♪ ありがとう」



 料理の感想を尋ねられたので、俺は美味しいと言って返す。その言葉が聞けて満足なのか、香花は笑みをこぼした。



 一緒に暮らして分かったが、彼女の料理スキルは割りと高い。ある程度のものなら何だって作れるのだと以前に言っていたし、これまでも何度か食べてきている。



 その証拠の一つに、以前に脅迫で使われた出刃包丁がある。あれは適当に用意されたものでは無くて、彼女の愛用品だった。



 あれで彼女は、魚を綺麗に三枚にへと下ろせるのだ。それだけの切れ味を、あの出刃包丁は持っている。



 あの時に俺が断っていようものなら、魚の頭を落とす様に、自分の首をも綺麗に切り裂いていただろう。



 決してあれは、振りとか演技では無かったのだ。ガチの本気である。そんな事にならなくて、本当に良かったと思っている。



 さて、話が逸れてしまったので、元に戻そうとしよう。



 彼女は元々、俺と付き合うより前、一人暮らしだった頃から自炊はしていたみたいで、それで料理が得意になったそうだ。



 ちなみに、それについて聞いた時に彼女は―――



『まーくんに喜んで欲しかったから、花嫁修業をいっぱい頑張ったんだよ♪』



 と、誇る様にそう言っていた。



 香花の言葉を信じるなら、俺をストーカーし出した頃から身につけたスキルなのか。



 仮にそうだったとして、彼女は何時から俺について知り、それを実行してきたのか。俺には分かりようがなかった。



 それにもしかすると、この事については嘘を吐いている可能性もある。



 俺と出会う前にはもう身についていて、昔から得意であったかもしれない。印象を良くさせようと、わざと言っているかもしれない。



 しかし、それを暴こうとは俺は思わない。無駄に彼女を怒らせても、メリットはないのだから。



 完全に見えてる地雷を、わざわざ踏む様な真似はしない。彼女がそれでいいのなら、それでいい。



 正論ばかりが、この世において正しいとは限らないのだ。それは彼女を暮らす上で、この上なく実感してきている。



「夜はもっと美味しいものを用意しておくから、期待しててね♪」



 と、俺が考え事をしながら料理を食べていると、香花はそんな事を言ってきた。



「夜って……うん?」



「今日の夜は、ちゃんと帰ってくるんだよね?」



「えっと……まぁ、うん。そうだな」



 彼女は心配そうに聞いてくるが、流石に今日も続けて飲みに行くというのは無いだろう。



 上司も頻繁に飲みにいく人間では無いし、神谷に至っては二日酔いで死んでいると思われる。



 だから、そうなる事はまず無いと思われる。余程の事が無い限りだ。



「二日連続で遅くなるのは、駄目だからね」



「あぁ、うん。分かってるよ」



「まーくんはいいかもしれないけど、私は……寂しいんだよ?」



「えっと……そうだね」



「寂しいとか辛いのとか……私、嫌だなぁ」



 彼女は項垂れた後に、ポツリとそんな言葉を俺にへと漏らした。



 それについても、十分と承知している。もう体験してしまっているから、嫌でも知っている。



 前に残業続きで帰りが毎日の様に遅くなり、香花を寂しくさせてしまった時期があった。



 これがウサギであれば、寂しくて死んでいたかもしれない。が、彼女は違う。そうじゃなかった。あまりにも強靭に過ぎたのだ。



 寂しくさせた仕返しだったのか、俺はようやく取れた休みの日に、無慈悲にも彼女によって拘束されていた。



 起きた時にはもう手遅れで、荒縄で両手両足をがっちりと縛られていたのだ。



 身動きが一つも取れない程、荒縄の縛り方は巧みなものであり、彼女は一体どこでそんな技術を習得したのか。聞こうにも、怖くて聞けやしなかった。



 俺だって好きで彼女を寂しくさせていた訳無かったのだが、それは彼女には通じなかった。聞いてもくれなかった。



 その日は一日中、香花が味わった寂しさを埋め合わせる様に、俺は彼女によって散々と弄ばれたのだった。



 あんな思いは二度と御免だ。彼女はそう思っているはずだろうが、俺もあんな事は二度とされたくはない。



「今日はそれ程忙しくは無いはずだから、早めには帰って来れる様に頑張るよ」



「……本当?」



「本当だって。絶対にそうするから」



 確証は無かったが、俺は絶対だという確定の言葉を使う。



 そうでもしなければ、香花は納得はしてくれない。俺を疑い、何度も何度も何度も確認の電話を仕事中に入れてくるだろう。



 というよりも、必ず入れてくる。入れてきたのだ。これに関しては、もう既に経験済みだった。なので、対処法はばっちりである。



「……絶対だからね。約束だよ?」



「あぁ、約束だ。破ったりはしないさ」



 俺がそう口にすると、彼女は無言のまま、スッと右手の小指を立てて、それを俺にへと突き出してきた。



 香花が何をしたいのか、俺には十分と分かっている。これは誓えと言っているのだ。約束しろと、行動で示せと。



 それに応えるべく、俺も同じ様に右手の小指を彼女に向けて突き出し、そして小指同士を交わらせた。



 幼い頃によくやった、約束を交わす時にする行動。所謂、指切りを香花としたのだった。



「えへへ♪ 私……待ってるからね」



 非常に子供染みた行動ではあったが、彼女とするとそうとは思えなかった。それどころか、酷く恐ろしく感じる。



 これで約束を破ってしまえば、本当に指を切られてしまうのではないか。



 そう思わせてしまうぐらいの行動を、今まで彼女はしてきている。説得力としてはそれで十分だった。



 俺の小指の為にも、今日は頑張らないといけない。俺は心でそう誓いつつ、朝食の続きを取るのだった。



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