第51話
「きょ、香花……その……あの……」
「ん? どうかしたのかな? 何だか歯切れが悪そうだけど……」
「いや、えっと……ちょっと言いにくい事なんだけど……あれだ。さ、さっきは最後の質問だといったけど……訂正させて貰う。これが本当の最後の質問……いや、俺から要求したい事がある」
「要求……?」
「そ、そうだ。香花の言いたい事は、その……良く分かったからさ。本当に、もう……文字通り、身に染みて理解したからさ」
皮肉を交えつつ、俺はそう香花に告げる。俺の真意としては理解しているとかとても言えないし、共感も何も出来ない内容だったけど、そこは話を合わせておく。
そうでも言わないと話は進まないだろうし、俺の意見が彼女に受け入れられるとは到底思えない。……まぁ、香花に対して肯定的な意見を発したとしても受け入れられるかどうかは彼女の器の大きさと度量の広さと言った感じではあるのは当然の事になるけれども。
「俺が香花の事を理解した分だけ、俺にも……えっと、少しでいいから譲歩をして貰いたいんだ」
「うーん……別にいいけど……条件にもよるかな。あまり無茶なお願いは私も駄目だって言わせて貰うけど」
「そ、そんな難しい話じゃない……というのも、だ。ほんの少しだけ……ちょっとでいいから、俺を開放して欲しいんだ」
俺がたどたどしい口調で発した要求に対して、香花は訝しい表情をその可愛らしい顔の上に浮かべて俺の事を見てきた。
「……あのね、まーくん。私はさっき言ったよ? まーくんの周りから脅威がさるまで、私はまーくんを開放するつもりは無いって。ちゃんと聞いてたかな?」
「いや、ちゃんと聞いていたさ……けど、それを踏まえた上でも頼みたい。俺を一時的に開放して欲しいんだ。用を済ませたら、その後はまた同じ様な状態に戻して貰っても構わないからさ」
「用を済ませたら……? その用事って、何の事なのかな?」
「え、えっと……それは……」
香花から詳しい内容について触れられた俺は言葉に詰まってしまう。用については言ってしまっても別に問題は無い事なのだが、あまりこの状況で口にするにはどうにもし辛い感じがしてしまう。
そうして俺が何と説明をしたものかと困っていると、香花は何かに思い当たったかの様なハッとした表情となり、俺の顔に自分の顔をぐっと近づけ、俺の目を見ながら―――
「もしかして……あの泥棒猫に連絡を取って来させない様にするつもりじゃないよね? それだったら、私は一時的にでもまーくんを開放するつもりは無いからね」
そうはっきりと告げて、無慈悲にも俺からの要求を断ってきた。俺から見える彼女の瞳には絶対に無理だという強い意志が込められている事が感じられた。
「い、いや、違う……そうじゃなくて……」
「違う? 違わないよ。だって、おかしいんだもの。用を済ませたらまた拘束をしていいって、それはまーくんが最初にした要求と違う事になるけど? まーくんは最初に、私が反省をして早急に開放する事を望んでいたよね。それが今の要求だと一時的にでいいからに変わっている。それってどういう事なの?」
「だから、それは……」
「一時的に開放されても問題が無くなるって事は、まーくんが心配する相手が来ないって意味じゃないのかな? 密かに連絡を取ってしまえば相手は私がどれだけ待てどもやっては来ないだろうし、それならまーくんが要求内容を変えてきた事に私は納得が出来るのだけど、違うのかな?」
「ええっと……あぁ、もう……」
俺はそう呟きつつ、心の中でそっと溜め息を吐いた。はっきり言って、香花の言っている事はほとんどが間違っている。俺の済ませたい用とはそんな事じゃない。もっと、その……酷く原始的で単純な内容の事である。
というよりも、香花の想像している俺の要求している事は俺が全くといって考えていなかった事だった。そんな事が考えられる頭があれば、今頃はもっと上手く立ち回っているだろうに、そうじゃないのが悲しくなってくる。
しかし、このままだと埒が明かない。香花は俺がそう考えていて断固として反対をするという意見を頑なにしている。となれば、どうするのが正しいというのか。それを考えている時間は、今の俺には無い。そろそろ限界が近く、もたもたとしていたら大変な事になる。
そう考えて、俺はようやく決心をする。あまり口にしたくはなかったが、ここまで来てしまうともう背に腹は代えられない。思い切って香花に打ち明ける事に方針を切り替えた。
「……分かった。正直に話すよ。そうすれば香花も俺がそんな事を考えていないって分かると思うからさ……それで頼むよ」
「うん、いいよ。それで、用って何の事だったのかな? 一時的に拘束から解放されて、まーくんは何をしたかったのかな?」
「えっと、その……」
俺はその内容を口にしようとするが、やはりどうしても恥ずかしい気持ちが湧いてきてしまい、言葉に詰まってしまう。しかし、もうそんな事で臆している場合では無いのだ。
状況としては背水の陣が妥当だろうか。本当にもう、後がないと言える。それにこれは俺の名誉に関わる問題でもあるからだ。俺は意を決してその内容について口にした。
「―――に、行かせてください……」
「ん? どこに? ちょっと聞き取れなかったけど……」
「だからっ! トイレに、行かせてくれっ!!」
俺ははっきりとそう告げると、香花はポカンとした顔をして俺の事を見つめてきた。その視線に居た堪れなくなった俺は彼女の顔を自分の視線から外した。
そう、俺が要求したかったのはトイレに行かせて欲しいという生理的欲求の事であった。こればかりはどんな状況だろうと我慢が出来るものではない。本当は我慢をしておこうと思ったけれども、それも限界が来てしまって叶わなかった。
それにそもそも、昨日には神谷と一緒に居酒屋で酒を浴びる程に飲んでもいたから、起きてから直ぐに行きたくなるというのはとても自然な事であって、俺は何も無茶は言っていない。うん、そうだ。
なので、俺としては一刻も早く拘束を解いて貰って、トイレに駆け込んでしまいたかった。もう香花の事とか、妹の事とかはどうでも良かった。後回しにしてでも良い。今はこの場で漏らしてしまわない事、それが俺にとっては先決であった。
「香花も俺がこのまま目の前で漏らしたら困るだろ? だから、早く行かせてくれ。もう、我慢が……」
「……」
「あ、あの……香花、さん……?」
俺が催促しようと声を掛けるが、香花から反応が返ってこなかった。しかも、彼女は無言のまま立ち上がって何と俺の部屋から出て行ってしまった。
「えっ……?」
俺はそれを見て困惑とする。返事が無い以上、彼女が何を考えているかは俺には分からない。もしかすると……出て行ってしまったのは俺に対する配慮であり、自分がいなくなる事で俺がここで漏らして貰っても構わない、なんて香花は思っているのだろうか。
それだと、非常にまずい。そんなものは配慮でもなんでもないぞ。俺は焦るが、焦ってどうにもなる事では無かった。依然として俺は拘束されたままでこのままいけば俺は無情にもこの歳になって漏らしてしまうしかなかった。
しかし、俺がそんな事を考えていると、香花が再び俺の部屋にへと戻ってきた。そんな彼女の姿を見て、俺はまだ希望は残されているかと思ったが、彼女が手にしているものを見た瞬間にその希望が打ち砕かれ、俺は絶望にへと叩き落された。
「え、えっと……何、それ……?」
一応だけれども、俺はそれについて香花に尋ねてみた。もちろん、その存在については知っていて用途についても知っている。けれども、聞かざるをえなかった。それを彼女が俺に使おうとしてくる現実を信じたくはなかったからだ。
だが、現実というのは非常に非情である。香花は俺にそれを見せつけるかの如く掲げて見せて、はっきりとこう告げたのだった。
「あれっ? まーくん、知らないんだ。これはね、尿瓶って言うんだよ♪」
尿瓶を持っていない空いた片方の手で指差しながら、香花はにこやかな笑顔でそう言ってきた。
いや、知っているんだ……知ってはいるんだけれども……。
そして香花の発言を聞いた直後、俺は唯一動かせる首を曲げて顔を上げ、天を仰いだ。
神よ、俺が何をしたというのだ。
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