5章

第34話

 



 ―――週末の夜。



 長かった本日の業務からようやく解放され、皆が羽を休めるか、それとも伸ばして和気藹々と楽しんでいる頃だろうか。



 しかし、俺はそのどちらとも取れない状態でいた。賑やかい居酒屋の店内で、一人浮いた様に沈んでいるのだった。



「はぁ……」



 周りのテンションに相反して、俺は重々しく深くため息を吐く。



 一体、何回目のため息になるだろうか。こんなものは数えているはずもないので、分かる訳もない。



 ここ最近、どうにもこうにも遣る瀬無さが込み上げてきて、何度も何度もため息を吐いてしまう。



 それを発散出来る術があればいいものを、その手段や方法は俺には何も考えはつかない。



 こうしてジッとしていて何もしていないと、またため息を吐きそうになる。もしくはどうにもならない倦怠感からか、机の上で突っ伏しそうになってしまう。



 なので、俺は気を紛らわせる様に、近くにあったグラスを手に取った。取っ手をしっかりと握り締め、それを口元にへと運んでいく。



 つい数分前に注文した、普段はあまり頼まない神谷が飲んでそうな強めの酒。



 見た目の色からして、度数が明らかに高そうなその中身を、俺は躊躇わずに一気に飲み干した。



「……あーっ」



 十分に冷えた液体の冷たさと、アルコールの焼ける様な熱さが身体にへと染み渡っていくのを感じつつ、俺は空になったグラスを元の位置に戻し、そして近くにいた店員に声を掛けた。



「すいませーん。これ、おかわりでー」



 俺の呼び掛けに応えた店員は笑顔でその注文を受けると、空になったグラスを回収し、新たなドリンクを用意する為に店の奥にへと下がっていった。



「ふぅ……」



 アルコールが回っているせいか、どうにも暑く感じてしまう。既にスーツは脱いでいるので、上はYシャツのみという格好になっている。



 どうせならYシャツすらも脱いでしまいたいのだが、それをしてしまっては下着姿となってしまう。公衆の面前というのもあるので、それはやってはいけない。



 俺はどうにかその衝動を押さえて、袖を捲って少しでも涼しくなれる様にして対処した。



 それから近くにあったメニューを手にし、それを団扇代わりにして、自分に向けて扇ぐのだった。



(何をやってるんだろうな……俺……)



 自分でもはっきりと自覚しているが、普段の俺なら絶対にしない様な行動の数々。まるで酔い潰れた神谷の様であった。



 まぁ、実際に俺も今現在は酔い潰れているのだから、同じなのだろう。アルコールが回り過ぎていて、まともな思考判断が出来なくなっている。



「お、おい、依田。大丈夫……か?」



「んぁ……? 何だって……?」



「今日は何だか、ピッチが早い様に思えるけど……」



 そんな俺の醜態を見てか、心配してか、一緒の卓に座る神谷がそう声を掛けてきた。



 いつもなら率先して酒を飲み、誰よりも早く酔い潰れている男が、今日は珍しくほろ酔い程度に抑えていた。



 その感じで言えば、神谷は従来の俺のポジショニングであった。そして俺が神谷のポジションに回ってしまっている。



 完全に立場がいつもと入れ替わっている。そんな事が起きてしまう程に、俺はどうしようもない憂鬱な気分に駆られているのである。



「お前から珍しく誘われたと思ったら……一体、何があったんだよ」



「……色々とあるんだよ。色々とな」



 俺がそう言った後、先程の店員が現れ、注文した酒を俺の前にあるコースターの上に置き、それから空いた皿を片付けて去っていった。



 俺はその新たにやってきた酒をまた手にすると、勢い良く中身の半分を直ぐに飲んだのだった。



「ふぅぅ……」



「おいおい……本当に大丈夫かよ。いつもは飲まない酒ばっかり飲んでさ」



「別に、いいだろ……」



「いいけれども……流石に吐いたりとかは、止めてくれよな」



「分かってる、って……いつものお前みたいな事は、しないっての……」



「とりあえず、ほら。息抜きに水でもちょっと飲んどけよ。少しはペースを落として、もうちょっとゆっくりと飲もうぜ」



 神谷はそう言うと、俺の目の前にグラスを置いてきた。アルコールが一切入っていない、純粋な水。天然水か浄水か、もしくは水道水なのかは分からないが。



「……好きにしてくれ」



 せっかくなので、俺は差し出された水を一気に呷った。焼ける様な熱さはそこには無く、ただただ俺の身体と酔いを、少しだけ醒ましていった。



「どうせお前が飲みに誘ったのって、愚痴でも聞いて貰いたいとか、そんなところだろ。素面とかだと、とても言えない様な事とかさ」



「まぁ、な……」



「今みたいな変な飲み方をしている様じゃ、相当に鬱憤でも溜まってる感じみたいだよな。また彼女さんが何かしたのか?」



「また……というよりも、香花にはいつも冷や冷やとさせられてるけれどもな」



「でも、それと今回のとは違うんだろ? それだったらいつもの会社で愚痴を言って終わりだと思うし」



「……そう、だな。実を言うと、かなり困った事態に追い込まれているんだ……」



「追い込まれている……って、何がだ?」



「香花に……浮気を疑われているんだ」



「……前にもそんな、似た様な事がなかったっけ?」



 神谷は何を言っているのかという風に、心底と不思議そうに首を傾げて、そう聞いてきた。



「あれは……確証も何も無い状態での誤解だったから、まだ訂正出来たから良かったんだ。けれども、今回はちょっと違うんだよ」



 言葉で説明しても分かり辛いので、俺は証拠となるものを携帯で表示し、それを神谷に手渡した。



 神谷に見せたのは、この間に送られてきた例のメール。香花が勝手に携帯を盗み見し、知ってしまったあのメールの事である。



「このメールのせいで、どうしようも無いぐらいに彼女から疑われているんだよ」



「……えっと。でも、これって……」



 メールの内容を目にして、非常に困惑した表情を神谷は浮かべている。



 こいつは色々と事情を知ってはいるので、それを見ただけでそれは浮気では無い事を直ぐに察した。



「その……ちゃんと彼女さんには、説明したのか?」



「したけれど……全く聞く耳を持ってくれないんだ……。そして毎日の様に、疑惑の眼差しを送ってくるんだ」



「それは、また……災難だったな」



「本当に、その通りだよ……」



 俺はそう言った後、頭を抱えた。これのせいでせっかく香花とある程度は和解出来たというのに、また振り出しに戻ってしまった。そんな感じとなっているのだ。



 こればかりは本当に、タイミングが悪かった。その言葉に尽きると思われる。



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