第33話
「お待たせ。はい、これ」
着替えを済ませ、夕食(約束通りに薬、異物等は一切と入っていない)を食べ終えてから少し経った頃。
ゆったりと椅子の背もたれに寄り掛かり、携帯を眺めつつくつろいでいた俺に香花はそう言って、さっき渡した腕時計を差し出してきた。
「せっかくのプレゼントなんだから、大事にしなきゃ駄目だよ」
「あ、あぁ。ありがとう」
俺は携帯を食卓の上にへと置き、彼女にお礼を言いつつ、差し出された腕時計を受け取った。
(しかし、どこが汚れていたんだろうか……)
渡されてた腕時計を眼前にへと近づけ、俺は改めてしっかりと確認してみる。
だが、俺が渡した時と戻ってきた今の状態を比べて見ても、その違いが俺には分からない。
香花が指摘した汚れというのは、それ程に気づきにくいぐらいの小さな、細かい汚れだっただろうか。
しかも近づけると、腕時計からは微かではあるが、ほんのりと薬品の様な香りが漂ってきた。
この香りは……何だろう。記憶を頼りに思い出そうとするが、中々と記憶の引き出しからは該当するものが出てこない。
ただ、どこかで嗅いだ事のある様な、そんな香りに思えるのだが……。
(……そうだ、思い出した)
そして少し時間は掛かったが、ようやく俺はそれに該当するものにへといきついた。
怪我をした時や病気になった時、そんな香りを嗅いだ覚えがある。
これは……そう。病院や保健室にある様な、消毒用のアルコールの香りだった。
(アルコールまで使って、殺菌消毒までしたのか……? 汚れを取るにしては、ちょっと念入りに過ぎないか……)
それを準備していたというのもそうだが、少しの汚れすらも見逃さない彼女の用心深さには驚かされる。
しかし、それも彼女らしいと思えば、不思議と当たり前の様に思えてしまう。本当に不思議だ。
そう、香花なのだから仕方ない。そう思う事にしよう。
別にこれについては深く追求する事でも無いので、それ以上は考えない事にする。
そうして俺は腕時計を再び着けようとしたが、途中でその動作を止めた。
今は別に仕事中な訳でもなく、自宅でゆっくりとくつろいでいるのだから、それを着ける必要性も無いだろう。
そう思い、俺は着ける事はしないでポケットの中にでもしまおうとするが、それも寸前で止めた。
動作の途中で香花の姿が目に入り、これはまずいだろうと思い直したからだ。
(このままポケットの中に放り込んだら、また香花に何か言われる気がする……)
帰ってきてから大事に扱え、大切にしろと、彼女から散々と注意を受けているのだ。
それなのにも関わらず、そんな事をしてしまえばまた機嫌を損ねるだろう。また適当に扱ったでしょ、と言われるに決まってる。
だからこそ、思い直した。危機を察して寸前で止めれて、安堵からホッと一息が漏れた。
(面倒だけれども、ここは部屋に置いてこよう。その方がまだ安全だろう)
そう思って俺は椅子から立ち上がる。
「このまま持ってるとまた汚れるかもしれないから、ちょっと部屋に置いてくるよ」
香花に向けてそう声を掛けた後、腕時計を持ったまま食卓を離れて、自分の部屋にへと向かった。
部屋に入り、俺は真っ直ぐと隅に置いてある作業机に向かって歩いていく。
そしてその上の空いたスペースに、持っていた腕時計を傷をつけてしまわない様にそっと置いた。
仕事で使う鞄の中に入れておくというのも考えたが、それをした場合、明日の出勤時に着け忘れる可能性もあるので、比較的に目のつきやすい机の上を選んだ。
(しかし……しっかりと保管するのなら、どうするのが一番いいんだろう……)
今までの生活の中ではそこまでしっかりと管理した事が無いので、そういった知識はあまり持ってはいない。
(専用のケースとかも必要なのか……? けど、それが必要なら……香花だったら一緒に買って、渡してくると思うが……)
用意周到な彼女の事だから、必要であれば抜かりなく準備はしているはずだ。それと合わせた上でプレゼントしてくると思う。
そう考えてしまうと、別に必要では無いじゃないかとも思えてしまう。しかし、それが満点に近い答えかどうかは微妙である。
(ここは一旦、調べてみるか……)
結局のところ、何の知識も持っていない俺が云々と延々と考えても、良い答えなんて思いはつかないだろう。
知っている人に聞くなり、ネットを使って情報を調べた方が解決するのは現状よりも何倍も速い。
(そうだ。ついでだから、昼に津田が言っていた事についても調べてみよう)
確か、花言葉……だったか。時間が無くて調べられなかったが、ここで一緒に調べてしまえばいいだろう。
そうと決まれば、早速と行動に移していこうか。後回しにしてしまうと、忘れてしまうかもしれないからな。
携帯を使ってネットで検索し、欲しい情報を手に入れる。内容的にも、それ程に時間も掛けずに目的は達成出来るだろう。
俺は携帯をポケットの中から取り出し―――
「ん?」
取り出そうとした―――が、その手は止まる。正確には、取り出す事が出来なかった。
何故なら、ポケットの中は空だったから。その中に携帯は入っていなかったのだ。
「あっ、そうか。あっちに置いてきたのか」
香花から腕時計を渡された時、俺は持っていた携帯を食卓の上にへと置いていた。
そしてそれを回収せずに、そのままこっちにへと来ていたのだ。だから、持っているはずがないのだ。
まぁ、別に大した問題でも無い。さっさと取りに戻って、それで調べればいいだけの事だ。
この自室にはパソコンも置いてあるけれども、それを立ち上げてから調べるよりかは、携帯を使って調べた方がまだ早い。
それにそもそもこの部屋に来た目的は、腕時計を置きにきた―――ただそれだけの事だ。
ちょっと行ってくると言って香花から離れたのだから、あまり長い時間を掛けていると、彼女の不満も溜まる一方だろう。
(香花に聞けば何か良い意見もあるかもしれないし、それで彼女に構う事も出来るから、一石二鳥だな)
そうする事で、彼女も機嫌は損ねないはずだ。悪くないアイデアである。
何はともあれ、まずは戻るところから始めなければ。そう考えて俺は自室を出る為に来た道を戻っていく。
そして香花のいる台所にへと再び帰ってきた。
(……ん?)
俺が戻ると、彼女は何やら携帯を見ていた。携帯を画面をじっと凝視し、そこから目線を外そうとしない。
いつもなら俺が姿を現せば、彼女はこちらにへと目を向けてくる。しかし、今回はそうはならなかった。
それによく見てみれば……香花が見ているのは、彼女の携帯では無かった。それは俺が置き忘れていった携帯だった。
そう、俺の携帯を彼女は俺の了承も得ずに、勝手に見ているのだった。
「えっ、ちょっと……? 香花さん……?」
「……」
何をしているの、という風に彼女に聞いてみるが、返事をしてくれなかった。
彼女はずっと俺の携帯に夢中で、関心を向けてくれない。一体、彼女は何を見ているのだろうか。
いや、ただ俺の携帯の中には彼女に見られて困るものは無い……はずだ。
飽く迄それは俺の中の基準な訳であり、彼女からすればそれは基準に収まっていない可能性もある。
「あの、香花……?」
恐る恐る、俺はもう一度彼女の名前を呼ぶ。頼むから、こちらに反応して欲しかった。
すると、香花はようやくと俺にへと目線を向けてきた。
「ねぇ、まーくん……」
彼女はぼそっとした小声で、俺の名前を呼んできた。
怒っているか、それとも不満顔になっているか。俺はそう考えていたが、その予想は違っていた。
彼女が俺にヘと向けてきたのは、何の感情も宿っていない、そんな無表情な顔だった。
「う、うん……?」
彼女のそんな表情を見て、俺は困惑する。何を見ればそんな表情になるのか、俺には理解は出来ない。
けれども、俺の携帯の中には彼女をそんな表情にさせる様なものは絶対に無いはずだ。
何なら一度、彼女によって全部消されている。だからこそ、そんなものは残ってはいない。
と、すると……香花は何を見てしまったんだ……?
「これ……さ」
彼女は無表情のまま、俺にへと見ていた携帯の画面を見せてきた。
そこに彼女をそうさせた原因が表示されているのだろう。俺もその画面にへと、視線を向ける。
「このメール……何なの……?」
そこには、メールの文面が表示されていた。そして、こんな内容が書かれていたのだ。
『もうちょっとしたら暇になるから、今度また遊びに行くからねっ♪ よろしくー☆』
短い文面だったが、そこには大量の可愛らしい絵文字が一緒に添えられて、画面上にへと表示されている。
「私……この人の事、知らないんだけど」
これは男が送ってくる様なメールの内容じゃない。紛れも無く女性が送ってくる様な内容だった。
そして差出人の欄には―――『文乃』という名前が載っていた。誰がどう見ても、女性の名前以外には考えられない。
それを見た彼女はこう思ったのだろう。もしかして、俺が浮気をしているのかもしれないのだと。
「……あー」
その文面と差出人の名前を見て、俺は何てタイミングでそれを送ってきたのだと思った。
正直、本当にもう、止めて欲しい。何でこんなにも、相次いで不幸が俺にへと降り掛かってくるのだろうか。
送ってきた相手と俺は、別に何でもないというのに……どうしてこうなるのか。
「ねぇ、まーくん……説明、して欲しいな……?」
降って沸いた新たな火種を前にして、俺は肩を落としつつ、どう彼女を説得したものかと考える。
どう説明すれば、彼女は納得してくれるか。昨日よりも難易度は高めだと思われる。果たして彼女は、俺の弁明を聞いてくれるのだろうか。
今日もまた、長い夜になりそうだ。そう考えると、深いため息しか出てこなかった。
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