第2話
「はぁ……」
静寂に包まれた夜更けの帰り道。すっかりと酔いも覚めてしまった俺は大きくため息を吐きつつ、家路に着いていく。
週末というのもあるが、とにかく今日は疲れた。あれからずっと上司に弄られ続け、休まる暇はほとんどといって無かったのだ。
その騒ぎの元凶を作った神谷はというと、あの後に直ぐに寝てしまい、フォローの一つもしてくれなかった。
爆弾を投下するだけしておいて、後はもう関わらないというのはまさに最低の極みである。
この仕返しはまた後日、あいつの意識がはっきりとしている時に行おう。俺は心の中でそう決意する。
そう考えている内に、ようやく俺は自宅のあるアパートにへと辿り着く。
アパートは三階建ての鉄筋住宅であり、俺の部屋は一階の一室である。広さも2DKとそこそこ広く、会社からも近いので割りと気に入っている物件だった。
そんな俺の自宅であるが室内は暗く、明かりの類いは一切点いてはいない。住人である俺が外出しているのだから、当然の事かもしれない。
しかし、この部屋には俺以外にももう一人……住人がいる。
「……ただいま」
鍵を開け、ゆっくりと扉を開いて俺は家の中にへと入っていく。
中はとても静かなものだった。人が起きている気配も無く、無機質な家電の音が時々鳴り響くだけの空間。
(この時間だと、流石に寝てるか……)
日にちも既に変わっており、現在時刻はあと数時間もすれば日が昇る時間帯である。そんな深夜帯に同居人が起きているとは思えない。
俺は寝ているものだと断定し、玄関で靴を脱いでから綺麗に揃える。それから静かな足取りで寝室にへと向かっていく。
物音を立てれば、起きてしまうかもしれない。それだけは避けたいと思いつつ、ゆっくりと歩くのだった。
もし、起きてしまったら……それはもう、とても面倒な事になる。
(頼むから、起きないでくれよ……)
それだけを切に願い、俺は黙々と足を進めていく。そして寝室の前まで何事も無く辿り着いた瞬間、安堵して息を漏らした。
ここまでくれば、もう大丈夫だろう。後は部屋に入り、着替えをしてから眠るだけである。
早く体を休めたいという一心で、俺は寝室の扉にへと手を伸ばしていく。その時にはもう、ピンと張り詰めていた気は完全に緩みきっていた。
だからこそ、俺は気づけなかった。横から物音を立てずに近づいてくる、人影があるという事に。
(……!?)
それに気づけたのは、横腹に唐突な衝撃を受けてからだった。急な事だったので、ろくな反応も出来ずに俺は床の上にへと倒れ込む。
突き飛ばされたのか、押し倒されたのかは暗がりでよくは分からなかった。
ただ、分かることといえば一つだけ。俺を襲った相手は俊敏に動き、倒れ込んだ俺の腹の上に馬乗りとなる。
そして両手で俺の両腕を押さえて動けなくし、がっちりと拘束をしたのであった。
「……えへへ」
俺の事を拘束しつつも、相手はそんな気の抜けた声を漏らしてきた。明かりが無い為、相手がどの様な表情をしているかは分からない。
しかし、恐らくは笑っているのだろうとこれまでの経験から推測する。俺からすれば笑えたものじゃないが。
「えっと、あの……動けないんですけど……」
俺は遠まわしにどいてくれと懇願してみるが、相手はそれを受け入れるつもりは無いのだろう。
俺を拘束する力は一切緩む事は無かった。俺の切なる願いは、相手には届かなかった。
どうすれば解放してくれるのだろう、と俺が考えている内に、先に相手が口を開いた。
「ねぇ……」
「……ん?」
「先にね、言う事があると思うな……?」
(……あぁ、そういう事か)
それを聞いて、俺は相手が何を言いたいのかをようやく理解した。
相手は不満なのだ。俺が帰ってきたにも係わらず、自分に向けられる言葉が一言も無い事に不満を抱いているのだった。
それならば、話は早い。相手が望む言葉を語りかければ、きっと拘束を緩めてくれるだろう。
「ただいま、香花」
「うん、おかえり。まーくん」
俺がそう口にすると、彼女……
「私ね、とっても心配してたんだよ? まーくんの帰りが遅いから……どこかで事件に巻き込まれたんじゃないかって」
「いやいや、そんな事は無いから」
香花のありえもしない妄言を俺はばっさりと否定する。拘束されていなければ、手を横に振る動作も交えていただろうが、身動きが取れない現状では出来なかった。
俺が事件に巻き込まれる可能性など、万に一つも無い。どちらかといえば、現状の方が事件に巻き込まれていると言えるだろう。
「それに、飲みに行くから遅くなるって連絡したはずだけど……」
「でも、それにしたって遅すぎるよ。今、何時だと思ってるの?」
彼女はそう言うとムッと頬を膨らませ、不満の意を俺に向けてくる。
暗がりにも慣れてきたせいか、彼女の表情も分かる様になってきている。
しかし、何時だと思っているとは俺の台詞でもある。何故に俺は、こんな時間に彼女に襲われなければいけないのか、遺憾の意を表したいところである。
「遅くなったのは、悪かったと思ってる。だからさ、許してくれないか……?」
いい加減、押し倒されたままで拘束されているのも、苦しくなってきている。明日も仕事があるので、早いところ解放されたかった。
そんな思いで彼女に向けて言ってはみたが、それでも頑なに、彼女は俺を離してはくれない。まだ何か、許してくれない事があるというのだろうか。
「ねぇ、まーくん。一つ、聞いてもいいかなぁ?」
「き、聞きたい事……?」
「まーくんはさ、どこのお店に飲みに行ったの?」
「どこって……近所の、居酒屋だけど」
「ふーん、そっか。居酒屋ねぇ」
そう言うと香花は口に右の人差し指を当て、何やら考えている様だった。それも真顔でである。
きっとこれは、良からぬ事を考えているに違いない。と、俺の勘が警鐘を鳴らす。
「ちなみに……誰と?」
「……会社の上司と同僚とだよ」
あの場には上司と俺、それと神谷の三人しかいなかった。そして全員が男であり、疑われる余地は全くといって存在しない。
だが、彼女が向けてくるのは疑いの眼差しであった。本当はどこかの女の子と楽しくしていたのでは、という目である。
間違いなく、浮気を疑っているのだろう。俺は嘘は言ってはいないというのに、どうやら信じて貰えていない様である。
「それって、本当……? 嘘じゃないよね……?」
香花は自分の可愛らしい顔を俺の眼前にまで近づけ、嘘かどうかを確認しようと俺の目をじっと覗いてくる。
両手には力が籠められ、腕がギュッと圧迫されて少し痛かった。
正直、威圧が半端では無かった。気を抜けば圧に負け、彼女から視線を逸らしそうになってしまう。
しかし、ここで目を逸らしてしまえば、俺が嘘を吐いたと香花に断定されてしまう。それだけは避けねばならない。
「嘘じゃない。俺が香花に、嘘を言うわけないだろ」
香花の目を真っ直ぐ見据えつつ、俺は彼女にはっきりと告げた。そう、俺は彼女に嘘を吐く事はしない。いや、絶対に出来ない。
それをしてしまえば、俺の身が危ぶまれるからだ。多分、そこで俺の人生は呆気なく幕を閉じてしまうだろう。
「……」
「……」
「……えへへ」
しばらく無言で俺の目をジッと見つめていた香花だったが、その表情に笑みが戻ってきた。やっとの事で信じて貰えたみたいである。俺は安堵してホッと一息吐いた。
「良かったぁ。まーくんが浮気してなくて」
「あのな、香花。一応言っておくけど、俺はこれまでに浮気なんて一度もした事が無いからな」
「分かってるけど……でも、心配なんだもん。まーくんが他の誰かに奪われるんじゃないかって」
「そんな事にはならないから、大丈夫だよ。だからさ、早く離してくれないか?」
「あっ、うん。そうだね。ごめんね、まーくん」
そう言うと香花は俺の両腕から手を離し、それから立ち上がって俺から離れていく。
これでようやく、俺は彼女の拘束から解放されたのだった。
やれやれと思いつつ、俺も立ち上がる。すると、先に立ち上がっていた香花は何かを期待する様な目で俺を見ていた。しかも、上目遣いでだ。
その仕草を見れば、彼女が何を欲しているのかが分かってしまう。これまで付き合ってきた経験から、直ぐに答えは導き出されるのである。
俺は香花の期待に応えるべく、右手を彼女の頭の上に置くとそっと優しく撫でてやった。
「……♪」
香花はそれをとても嬉しそうにして受け入れている。これだけ見れば、俺も香花の事を可愛らしく思えてしまう。
しかし、それは一瞬限りの事である。本気で香花を愛らしく、可愛らしい彼女であるとは俺には思えないのだ。
第三者の目線から見れば、何故なのかと思うかもしれない。ここまで香花が見せてきた顔は独占欲が強く、疑念深い女の子である。それだけなら、少しは可愛らしくもある。
だが、彼女が持つ顔はそれだけでは無い。今まで見せてきたのはほんの一部で、まだ幾つもの顔を持ち合わせている。
その持ち合わせている顔の多さに辟易するというのもあるが、本当の理由は別にある。
実は彼女……愛澤香花は昔、俺のストーカーをしていたのだった。
そして俺は香花に脅は―――好きだと告白をされ、こうして現在進行形で付き合っているのだ。
(本当に、もう……どうしてこうなったのか……)
俺は香花の頭を撫でつつ、自分の身に降りかかった不幸を、そしてこんな運命を与えた神様を呪うのであった。
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