第17話
(どうする……どうすればいい……)
久しぶりに味わう、混乱の極致。こんな経験は、香花に告白された時以来の事だ。
あの遺書からの自殺詐欺コンボに匹敵する、由々しき事態である。
ここで対応を誤れば、とんでもない事態になるだろう。最悪の場合、香花がまたあの時の様に、出刃包丁を持ち出してくると思われる。
そうなれば……彼女の期待を裏切ったとされて、俺は殺されるかもしれない。
鋭利に磨き上げられた出刃包丁を使い、俺の心臓を一思いに突き刺すのだ。
たったそれだけで、俺の命は尽きてしまう。あっさりとした幕引きで、俺はデッドエンドを迎えてしまうだろう。
もしくは、自分は俺に必要とされてないと絶望し、彼女が死を選ぶ可能性もある。
また首筋に出刃包丁の刃を当て、それを一気に引き、スパッと頸動脈を切り裂いてしまうかもしれない。
というよりも、例の物は完全にスタンバイされている。台所に置いてあるまな板の横―――そこに出刃包丁が置かれているのを、俺は視界の中で確認した。
何故にそれが、そこへ置いてあるのか。ただ単に、料理で使っただけなのかもしれない。
そんな理由であれば、何の問題もありはしない。それは普通の事だと思える。
しかし、そうとは限らない可能性も存在する。彼女はこうなる事を予測して、傍らに置いて用意していたのかもしれない。
また俺を脅す手段として、前もって準備をしておいたと言われても、自然と不思議に思えない事が、彼女の異常性を十分に物語っている。
……いや、そうじゃない。今、考えるべきはそんな事じゃないのだ。まずはこの窮地を脱する方法を考えなければ。
出刃包丁に目がいって、つい余計な事を考えてしまったが、話を戻していこう。
とりあえず落ち着く為にも、俺は心の中で軽く深呼吸をする。心に余裕が無ければ、この事態は回避は出来ない。
それを実行した事で、完全にとまではいかないものの、少しは気を静める事が出来た。
ここからはしっかりと考えていかなければならない。この危機をどう乗り切っていくかを。
「そう、だったな。そういえば、今日だったか」
俺はまず最初に、香花に向けてそう口にする。
ここで『もちろん、覚えていたとも』と、体よく言い繕ったとしても、彼女にはきっと通用しない。
先程の会話から俺が今日の事を分かっていない事は、既に知られてしまっているだろうから。
彼女がその事に気づけない訳が無い。相手を観察する事に長け、勘の良い香花なら絶対に察している。
なので、下手に誤魔化すという手段を用いるのは、愚策もいいとこだ。保身を図ろうものなら、その先に待つのは破滅しかないのだ。
「付き合い始めてから……もう半年も経つんだな。早いものだ」
「ううん、そんな事は無いよ。私にとっては、まだ半年かな」
まだ、半年。彼女はどうやら、そう捉えている様だった。
普通であれば充実した生活を送ろうものなら、時間の経過は早く感じているはずだ。
それなのに、香花はまだという言葉を使った。それは何故なのか。
多分ではあるが、今のこの段階は彼女が思い描く人生設計図のまだまだ出だしであるからだ。
それならその言葉を使うのも頷けた。まだ先は長いからこそ、そう表現したのだろう。
「そうか。香花はそう思っているんだな」
「うん。半年だと、まーくんとの思い出もまだ少ないし……」
「でも、俺にとっては毎日が色んな事で満ち溢れているから、時間の経過が早く感じるんだ」
「香花と出会ったお蔭かもな」と、最後に付け加えて俺は彼女に向けてそう言った。
もちろんこれは、色んな意味を籠めての発言である。多少の皮肉も籠めてはいる。
香花と暮らす様になって……今まで経験してこなかった事を、沢山経験させられた。圧倒的に、酷い目に合う事が多くを占めてはいるが。
だからこれは、嘘を言っている訳では無いのだ。飽く迄、俺は事実を口にしているだけなのだ。彼女を騙す事にはならない。
それを聞いた彼女は、喜びに満ち溢れた表情になった。俺がそう言った事を、嬉しく感じているのだろう。
「嬉しいなぁ。まーくんがそう思ってくれてるなんて」
「ま、まぁ、そうだな」
「じゃあ、これからはもっともっと、色んな事をしていこうね」
「……えっ?」
「同じ時間を共有して……いっぱい思い出を作っていこう?」
「う、うん。そうしよう、な」
彼女からの問い掛けに、つい俺はそう答えてしまった。しかし、これは大丈夫だろうか。
明日以降にも今まであった以上の事を、俺は経験しなければならないのか。これは少し、墓穴を掘ってしまったかもしれない。
まぁ、けれども。香花との会話は順調に進んでいる。その証拠に、彼女の機嫌は良いままでいる。
この調子で乗り切っていけば、何とかなってくれるとは思う。
「あっ、そうだ。そろそろお腹空いたよね。もうすぐ出来るから、待っててね」
香花はそう言うと、俺と会話する為に止めていた夕食作りに戻っていった。
食器棚から皿を取り出し、そこへ料理を盛り付けている姿を、俺はその後ろから黙って見つめる。
失言はなるべく避けたいので、必要以上には言葉は発しない。黙って彼女の行動を見守るのだった。
そして彼女が言った通り、夕食の準備は直ぐに終わった。時間にすれば3分も経っていない。カップ麺が出来るよりも早かった。
俺が彼女に話し掛けた段階でほとんどの作業が終わっており、後は盛り付けを残すのみとなっていた様だ。
「はい、お待ちどおさま♪」
俺の目の前に、彼女の作った料理が載った皿が配膳される。
出来立てである事を主張する様に、料理からは湯気が立ち上る。それが一際、料理を美味しそうに思わせた。
「今日は記念日だから……いつもとは違う、特別メニューだよ♪」
特別メニューだと彼女は言ったが、メニューの構成は全部で3品。その内容は至ってシンプルである。
3品の内、2品に関しては特に言う事は無い。普通の白米が茶碗に盛られ、数種類の野菜が入ったコンソメスープがカップの中に注がれている。
言ってしまえば特別感も無い、普通のメニューである。それなら、特別なのは残りの1品の事を指しているのだろう。
その3品の内の最後の1品。それはハンバーグだった。それも買ってきたものじゃなくて、香花が手ごねして作ったものだろう。
皿の上にはこんがりと焼き上げられた肉塊が中心に置かれ、その周りには添え物のブロッコリーや人参といったものが盛られている。
見た目は普通であったが、ハンバーグの上にかけられたソースに俺は目を引かれた。デミグラスソースかと最初は思ったが、色がどこか違う風に思える。
感じとしてはケチャップの色に近いだろうか。赤黒い色をしたソースが、ハンバーグの上にたっぷりと掛けられているのである。
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