第11話―選び伝える手

 臭いの糸が二本、Pansyの胴体に纏わりついた。

 一本は発汗で酸化し続ける鉄の、もう一本は血を吸ったばかりの土から揺れ昇る殺意の臭いだった。

 Pansyが神跳草の茂みに隠れようと前屈みになると、Cocoが伏せていた方角から横転してしまった。

 空気圧は欧州のハリケーンに一秒で呑み込まれるほど弱いが、範囲がPansyの等身大なので集約した力はもはや咆哮ほうこうだった。

 神跳草は摩擦音なく振り乱れ、僅かに見える土から蔦が無数に飛び出した。Pansyが頭を起こした後も伸び続ける蔦は、ブランコを作るには心許ない。

 それでも蔦内部の水分量もエキスの脳密度も高く、危険の知らせを帳消しにするには十分過ぎるほどだった。

 何よりもPansyの足腰を支える約三十本の蔦には相応の生命力があった。

「くそっ! まだそんな力が残っていたとは……これが、グリーン・ムーンストーンの底力……」

「Coco様! Coco様、ケガしていない? 苦しいところはない?」

 Pansyは並ぶ蔦を掻き分け、伏せているはずのCocoへ駆け寄った。

「血は……流れ、とらん……な?」

「Coco様、何言っているの? 見ての通り、私は無事よ。ほら、服だって裂かれていないでしょう?」

「そ、か」

 Cocoの口からは湯気の吐息が乱れ溢れ、嗅覚でPansyを探っていた。Cocoが完全に視力を失っていたのは明白だった。

「私はここにいるわ、Coco様」

 Pansyは両手でCocoの鼻先を固定した。泡立てたばかりのメレンゲを包む温もりで、Cocoの鼻は落ち着きを取り戻した。

「老いぼれ……が、意地張る、と。苦労させ……てしま、うな。Oli……veよ」

 Pansyは背後の、スズラン臭が充満した空気渦の中心へ振り向いた。

「嘘、こんなことって」

 刃物を握っていたのは、狂気に侵食され始めた目のOliveだった。長い髪を普段よりもきつく後頭部で一つに結い、武器を隠す必要のないタイトな服装だった。

「詫びるくらいならばさっさとこと切れろ。人間に殺された、弱い獣として」

「ここまで、して、族ちょ……に、Marronを」

「当然だ。父こそグリーン・ムーンストーンの器にふさわしい。の知恵とこの腕は父の僕である証だ」

 刃物を握りしめる拳から上腕二頭筋まで、感情の高ぶりで血管が濃く浮き出て脈打っていた。Oliveが望む近未来を目の前にした喜びと、反逆者となりうる存在への憎悪だ。

 Oliveがどのような姿や表情をしているかをPansyに訊くことなく、Cocoは歯間から涎を流した。PansyはCocoまでもが自身の感情を制御できなくなっているのでは、と怪訝した。

「……、無罪の子……」

Oliveの額にも太い血管が浮き出て、傍の神跳草に向けて刃物を振り刺した。

「口達者も大概にしろ! お前は直に死ぬ。そうしたら今日から父が真のグリーン・ムーンストーンだ。父の器をろくに知ろうともせずに独断するな!」

 理性を失ったOliveにはPansyが付け入る隙が見当たらなく、Aoiの最期はどれほどの恐怖に侵されていたかといまさらながら思い馳せた。

「奴だけでは……ない。お前、も……どのトビヒ族、も。なれぬ……だからお前、は無罪だ」

 二体の感情起伏の差に挟まれ、Pansyは各ビジョンが合致していないことに気付いたが自ら口にしないように噤んだ。この時点でPansyはだからだ。

 PansyはOliveの興奮が鎮まるのを、すなわちCocoのビジョンを共有できるまでOliveから視線を逸らした。

「無罪は当然だ! 最終的には俺がすべてのトビヒ族を従えるのだから、杜の不吉を排除するのは神の義務だぞ。お前が父を侮辱した大罪も罰してやる! 脳足らずな男でも、俺にとっては肉体の親だからな」

「神……お前には、本当に、そう見えるか? この先も、は……っきり、見える、と?」

「何が言いたい? 遺言だったら聞き流してやってもいいぞ」

 OliveはCocoの吐き出した涎がかからない程度の距離まで詰め寄り、膝を着けた。至近距離のPansyは完全に視野の外だった。

「この日、トビヒ族は……滅びる。神など、とうの昔に、消え失せ、とる」

「だったらなぜ今の今まで王座に居座り続けた! この人間もどきが!」

「この老いぼれ、は……じめから、人間などでは……なか、た。あのとき九十年前の、何人もの……遺志を。踏み潰すわけ、には……」

「それが人間もどきの、人間贔屓だというんだ!」

「亡き父は純血……だがあとは皆、人間……だが、無闇に人間を……受け入れず。そうだろう? すべての人間が、他の……すべての人間を、無条件に……許さぬ。トビヒ族も、おな……同じ、だ。この杜で、十分に理解し……体験しとるのは、この娘、だけだ」

 Oliveは歯を噛み締め、Pansyの胸ぐらを掴んだ。短期間で発達した腕力に意識を奪われ、PansyはCocoの鼻先にしがみつくことすらできなかった。

「混血の分際で! お前が杜のために何をしてやったというんだ。毎日毎日絵を描いて遊んでいただけの女に、この俺が劣るものか!」

 互いの額が放つ熱が交わる距離で、Oliveの涙と唾がPansyの顔面に飛沫する。

 Pansyは肌の毛穴と鼻腔から、Oliveが自ら被せた蓋を感じ取った。枯れ葉から涙が消える臭いだった。

「だからあんたは頭が固いのよ!」

 PansyはOliveの両耳を外側に引っ張った。 

女であるPansyはOliveの腕力に敵わない。トビヒ族として脚力が発展しているとしても、性差と純血か否かで今まで以上に差が開いていくことも簡単に予測できていた。

 至近距離のOliveに抵抗するならば、筋肉の発達が見受けられない個所を刺激する他にない。

「私はあんたが思っているような世間知らずなんかじゃない! 故郷ではパパが殺されて、杜では同じトビヒ族の連中からママが追い出された。私はまだ無力な子どもだから大人しくしているだけで、本当はパパを殺した人間も、ママを苦しめたトビヒ族も大っ嫌い! あいつらに地獄を見せてやりたいくらいよ……でも、二人を守れなかった私自身はもっと嫌いよ! これが私の本心なの」

 Pansyは飛沫した体液を両手の平で拭い、Oliveの両頬に擦り付けた。

「お前、きたな……」

「なのにOliveは? 本当は自分で見て感じて、触れたものがいっぱいあるでしょう! 知恵だけは無駄にあるんだから、あんたの心に従って生きることすらできないの? トビヒ族としてでも男としてでもなくて、この世にたった一しかいないOliveとして。私は力の優劣なんかちっとも興味ないわよ。でも……あんたが自分のことを私より劣るって言ったの、そういうことじゃないの!」

 Pansyは怯むOliveの唇に両手の親指を突っ込み、口腔から両頬を引き延ばした。

「は、んいー」

「人間の世界でも杜でも、私は本当に嫌いな奴とは一緒にいた覚えがないわ。嫌味ばっかり言って女の子にモテない典型的なバカでも、耳垢一つ分くらいはいいところもあるって知っていたから。Coco様のことだってそうよ。私はアジア大陸に行ったこともないし、そこでCoco様がどんなに苦しんだか見聞きしていない。そもそも理解したくても本人以外が簡単にできるものでもないもん。この杜で何をしたかったのかだって、Coco様は一度も話してくれなかった。でも私はCoco様のことが大好きだよ! 何も感じないでグリーン・ムーンストーンでいられるはずもないのに……きっとCoco様はずっと昔から苦しんでいた! 特別な理由があるからこうして杜に住み続けて、私たちを受け入れてくれて、Oliveの悪事だって許そうとしてくれているじゃない! そんなCoco様を、Oliveだって本当は憎くなんかないでしょう! 大好きなんでしょう! 殺したかったら、刃物なんか投げ捨てないでさっさと刺していたでしょう!」

「ほ、えは……」

 Oliveから緊迫した力が抜け、一筋ずつの涙がPansyの両手にかかるとPansyの背後から吐血の咳が聞こえた。

「Coco様……!」

「グリーン・ムーンストーン様!」

 PansyとOliveが駆け寄ると、Cocoは血まみれの口で笑っていた。


「そこに……ったとね」

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