第2話 2007年ー儚い芽生え

 風は目に見えないだけで、潮と同じように波打って唄う。花の開花を、幼子が自らの足と力で歩くことを覚えたことを、家族がハンバーグを作って自分の帰宅を待っていることを。

 風は、すべてを教えてくれる。人と自然の営みを知らせ、ともに祝う。教典は文字を覚えないと自力で理解できないが、風は知恵熱を迎える前から自らの神経で感じ取れる。


 両親の口から出る言葉の破片を繋ぎ合わせ、辻褄に戸惑いながらも五歳の瑚子ここは訴えた。

 義母の友里子ゆりこは瑚子の成長を喜び、利発な娘に育つことを期待した。一万円の羽毛布団よりも柔らかい頬を滑り全身を包まれ、瑚子は義母の固めのプリンを連想する胸に顔を埋めた。

「ママの、大好きな瑚子ちゃんは世界一!」

「ココも、ちぇかいいちママがちゅき!」

 友里子が瑚子のつむじに口づけた直後、父の昌晃まさあきはせせらぎの風を小石に変えた。

「瑚子、よく聞きなさい。今お前が言うたことはお父さんとママ以外の人には秘密にするんだ」

「なちて?」

 正晃は態度での表現も言葉も乏しく、瑚子が胡坐の脚に腰かけても頭部を撫でるだけだった。それでも瑚子を愛してくれていることを幼いながらも知っていた。だからこそ瑚子と同じ目で小石を投げるように見てくる理由が思いつかなかった。

どうしてでもなしてでも。お前が秘密を守れば、お前は毎日お友達と一緒に遊べる。ママだってお友達のママたちと笑ってお話できる」

「お父さん? 何ば言うて……」

 正晃は友里子の腕に隠された幼い目を追い捉える。太陽の刺激を知らない明暗の目は恐怖を抱いていない。友里子に包まれる安心感と、唐突に年齢を訊かれ数を思い出すときに酷似する戸惑いの狭間で揺れる。

「できるか? 瑚子」

「できたら、ココ、プリキュアみたいにちゅごか?」

「そうだ、瑚子もプリキュアだ。だから、瑚子がプリキュアになれることも、秘密にできるか?」

 正晃の中では「プリキュア」が幼女にとってのヒーローである、という程度の認知であった。見たことがあるのは瑚子が着るパジャマにプリントされたもののみ。正晃に教えてくれる友里子自身も、瑚子と長時間関わっている割に詳しくはない。

 それでも少年時代の正晃にとってのポケモンリーグ・チャンピオンであるように、永遠の憧れは半永久的に色あせない。瑚子が分別のつく年齢まで存在感を維持してくれるものであれば、プリキュアでもジムリーダーでも何でも良い。

 瑚子は同じ幼稚園に通うどの生徒よりも聡い。娘に疑われないよう、正晃は閉じた唇の奥で上下の歯列を噛み合わせた。

 正晃の望み通り、瑚子は風の生態を含め自らの発言を控えるようになった。家庭の内外でも第三者を思いやることを、瑚子は生涯忘れることはなかった。

 代償として、プリキュアが幻想の世界だと悟る八歳の誕生日を迎え、正晃は嘘つきとして瑚子から敬遠され始めた。


 瑚子が正晃の膝に乗る日々は、一世紀前の産物と化していた。

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