第3話 2019年7月末日ー最愛の日々
私立聖マリアンヌ女学園高等学校――長崎県長崎市内を周遊する路面電車を降り、階段より緩やかな石坂を上り五分のところに点在する。最寄り駅が原爆資料館であることも相まって、キリスト教に基づく人格形成を最も尊ぶ。また地元では県内各地から優秀な乙女を集め運動各部が毎年インター・ハイで名を馳せることで知られている。
バトンを前走者から引き継ぐ際は脚幅を相手に合わせる。一キロに満たない筒が完全に指の輪からすり抜けて初めて、瑚子は地面にダイブするように上半身を沈める。塩より粗い砂粒が一つ、膝を抱えて静かな呼吸へと矯正する少女の髪に埋まる。少女が顔を上げると、瑚子の背中は消えている。瑚子は呼吸を整うまでに少女の背中に近づいていた。
「Aチーム、三十八.二五!」
アクア・マリン色で刺繍された校名とオフホワイトの無地野球帽を、瑚子は外さずリレー・バトンを所定の位置に戻す。
瑚子に遅れてゴールする少女が三人、野球帽を外し手に取ったフェイス・タオルで汗を拭う。有色の日焼け止めクリームが崩れるのも厭わず顔面を擦り、酷夏の日差しに体力を消耗されていることは、遠巻きの一年生の誰もが見て分かる。
「瑚子!」
髪の長さを各部分五センチに切りそろえた少女が瑚子の肩を抱き吸い込み式の水筒を瑚子の頬に当てる。
「こがんくそぬっか
「まーちゃん、うちの水筒、冷やしとってくれたん? ありがとう」
「ポカリとかアクエリならまだしも、瑚子は麦茶派やけんね。
瑚子が頷くと、背後で風船が割れる音と咳払いが一回ずつ響いた。
「村雨、
「つーかあんたら、一年んときからクラスが一緒やろうが。そがんべったりで、よう飽きんな? 特に谷崎」
聖マリアンヌの元クール・ビューティーにして百メートル走のエース、
その隣に立つのは漆黒のサングラスをかけたライト・ブラウンのポニー・テールは陸上部のコーチ兼監督、
同性同士で上半身を密着することは共学では異常性愛と叫び指差される行為である。
しかし同じ行為でも場所が女子校であれば、子猫のじゃれ合い程度の認識に変わる。
美鈴と佐奈子にとっても、瑚子とまーちゃん、もとい谷崎
「飽きる理由が無かですよ。瑚子は可愛かし、一緒に陸上しているといつん間にか私と同じくらい汗
真奈美は自分の額に密着していた野球帽の内面を美鈴に差し出す。
「止めろ、鼻が腐る」
「いやいや部長、さすがに本物の瑚子の匂いはもったいなかですけど? 私の臭いなら遠慮せんでよかですよ」
「そういう問題じゃなか!」
美鈴は胸を背後のトラックに向け、地面を蹴り上げる。
「部長~! インターハイ前に足ば痛めますよ~。短距離専門じゃなかですかぁ」
真奈美は腹筋に力を込めて声量を限界まで上げ、美鈴はトラック二周目に入ると同時に叫び声が止まる。
「あの……長距離……バカが……」
美鈴の息切れは誰の耳にも届かない。瑚子の耳にはなおさら、背後の呑み込み切れない笑い声で掻き消されている。
令和に改元されて二ヶ月過ぎた今でも、運動部特有の上下関係は深く根付いたままである。真奈美と美鈴のやりとりが例外として認められる理由は二つ。
「あ~あ、中学部では完全にクール・ビューティの仮面ば死守しとったとにねぇ」
「そぉそぉ、近づいたらでけんって勘違いしとった三年間がもったいなかったね」
美鈴の短距離ランナーとしての実力と眠っていた指導力が認められ部長に任命されたのは、真奈美が孤独の殻を砕いたためである。真奈美もまた長距離ランナーとして全国中体連を二連覇、特待生として入学したことが要因として大きい。
「ま、真奈美のことは見ている分には
「校則がスマホ禁止じゃなかったら、堂々と動画ば取れるとにな」
「それな」
それぞれ出身中学が異なる三年生の声が人の頭を渡る。物理的に美鈴と真奈美には聞こえないが、瑚子の耳元では間近のトランペットのように響いている。
「……もう、まーちゃんってばぁ。恥ずかしかぁ」
瑚子の指腹に粘り気のある日焼け止めクリームが絡みつく。
「あいつら、インター・ハイば勝つ気でおるとやろか?」
佐奈子の一言で、瑚子は両ひざをついた。
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