第5話―屈折する光

「――というわけで、僕たちトビヒ族は地球上のすべての自然を守護する神々なんだ。理解できたか?」

「ちっとも。Oliveが『神』なんて口にすると胡散臭い」

 Pansyが両踵を落とすと、川の水琴が杜の中で響いた。

「僕を俗呼ばわりするな。そして勝手に絵を描き始めるなと、何度言わせたら気が済むんだ!」

「だったら楽しい授業にしてよ。私と同い年なのに、遊び心ってモンがないの? あ、実はCoco様より年上だったりする? Oliveおじいちゃん」

「お前が僕の神経を老けさせているんだよ、Pansy」

 Pansyが杜へ越して七日経つと、Oliveは化けの皮を完全に脱ぎ去った。

 Coco以外の者に目の前で気ままな言動をされて、Oliveがとしてもてなすこと自体が馬鹿馬鹿しくなったからだ。

「それよりCoco様も人間の姿だったって本当? Coco様のことも描きたかったなぁ」

な! ま、お前のならば悪くはなさそうだけど……あいにく僕も詳しくは知らない。確か父が生まれたころはすでに今のお姿を維持されていたとかで」

「やっぱりOliveはつまらないわ。レディーの扱いがなっていないもん。あーぁ、Coco様が私と同い年だったらなぁ。あのときのケーキ美味しいって言ってくれたし、話が合いそうだもん。それにきっと、若いころのCoco様も可愛かったわ! 私の代わりにオシャレさせたかった」

「神々の長をお前の物差しで測るな。絵もSakuraの所に戻ってから描け、散らかすな。僕にはCoco様のお世話という本来の務めがあるんだ。余分な体力を削らせるな」

「だったら明日からCoco様の所で遊ぶ。Oliveより面白いお話を聞かせてくれそうだし、私が色んな絵を見せたらママが元気になるかもしれないもん。ママだけじゃなくて夢の中でも……」

「夢、だと?」

 Pansyは腹に抱えていたスケッチ・ブックで顔面を覆った。

「何でも……ない」

 Sakuraとの約束がなくても、Pansyはこの一言で精いっぱいだった。

 弁の立つOliveへの微々たる抵抗でもなく、必死にトビヒ族のコミュニティーに溶け込もうとするSakuraを邪魔したくない気持ちでもない。

 生きた姿のAoiとは二度と会えないことを思い知らされるたびに、恋しい気持ちで涙腺が歪む。

 杜に持ち込んだスケッチ・ブックには記憶に留まるAoiを写すことすら許されず、成長につれ杜での生活が長くなるほど、PansyはAoiがこの世に存在したこと自体を少しずつ忘れていくのではないか。

 不安のはけ口が見つからない焦燥感は、今でも両親と同胞に囲まれて暮らすOliveに理解してもらえるとは到底思えなかった。

「――お前がどんな夢を見ようと僕には関係ない。それがたとえ実現の可能性が低い願望でもな」

 Pansyは川面を見つめるOliveを見上げた。Aoiの存在に気付かれたのかと焦燥があ増した。

「いや、可能性が低いというよりゼロだな。慎み深いPansyなど、もはやPansyではない。まぁ、理想を求めること自体は悪くないのだが」

「Olive! あなたの目には私がどんな風に映っているのよ」

 Pansyは赤毛のおさげがトビヒ族の角になっても良いと思うほど、Oliveに突き刺したくなった。

 現実は髪が獣の角に変化するはずがなく、わずかに赤みのある透き通った夕日を浴びるOliveが視界に入ると、憤慨は心の中で溶けてなくなるだけだった。

 Oliveの髪が緑の混じったベールに包まれているだけでなく、Pansyと同じであるはずの色彩が川面の反射光と同調した。

「今日も送ってやる。十二歳を過ぎても神跳草で遊んで川に落ちたら、半永久的に笑い種になるからな」

「信じられない」

 Pansyの肌が白砂糖にバナナの実で作ったペーストを混ぜた色であれば、Oliveが差し出した手の指先はコットン・スノーでなく洞窟の氷でできた水晶が他方角から光を吸収した色に輝いていた。

 Pansyと同じ人の姿、裸眼の色彩であっても、Oliveは神を自称するだけあるのかもしれない。

 Pansyは幼児認定の発言に立腹できず、Oliveに手を引かれ川を去った。

 帰路には足跡の代わりにOliveの体臭が残り、沈丁花ジンチョウゲの香りで二人の安全が伝わった。

 本来の姿で生まれたトビヒ族は足を折り、木々に寄り添って就寝の準備に入っていた。

「Sakura、杜の生活には慣れたかしら?」

 トビヒ族夫人の一人が声をかけてきた。彼女が抱える風呂敷風の包み布一つには生活で必要な材料で詰まっている。

 トビヒ族の世界では化学物質の使用はご法度で、同法は杜にある資材を調達して賄っている。

 Sakuraは包み布を二つ抱えていた。人間の世界でも化学添加物を使用しない料理と掃除を心掛けていたので、この二つに関しては比較的早めに杜の生活に適応できた。

 それでもどの夫人よりも大きく軽い荷物を抱えているのは、女として生まれた以上免れないものがあるからだ。

 Sakuraは次の生理に、Pansyにはいつ初潮を迎えても良いように杜で定められた生理用品を準備していた。

「Pansyはそんな年ごろなのね。うちは男の子だけだから、母親として教えることが少なくて物足りないわ」

「娘を持ったら持ったで心配ごとは尽きないもの。その点Oliveはしっかり者だと聞くわ。きっとあなたの教えが上手なのね、Azaleaアザレア

「ありがとう、Sakura」

 Oliveの母・Azaleaは優越感に浸りかけた笑顔になった。

 夫のMarronの前では感情を押し潰して謙虚になり、息子のOliveには決して叱らず諭して導く。その成果を女社会で称賛されるのが常となっていた。

 PansyがOliveに世話になっている以上、母娘のテリトリー死守と女社会に荒波を立てず適当にあしらう処世術を使いこなす必要がある。

 Sakuraの両親が有力なガーディアンであることは過去の産物であり、今のSakuraには何の力もない。

 Pansyが分別のある年齢に成長してから越して来たことが唯一の救いだった。

「それにしてもSakura、引っ越しは大変だったわね。あのときは偶然手の空いた男手がいたから良かったけど、本来引っ越しの片づけぐらいは手伝ってくれる家族がいないのもSakuraが困るだけじゃないかしら?」

「――そうね、あのときはほんとうにありがたかったわ。その上OliveにはPansyのお世話までしてもらえて。親として、娘が良いに恵まれて本当に嬉しいもの」

 SakuraはAzaleaが何を探っているのか察知していた。

 感情を取り除けば、夫のAoiとは血の繋がりも種族の繋がりもなく、未亡人となったSakuraとは元の他人同士に戻る。

 その気にさえなればSakuraを慰める男の同胞が一人か二人は現れるだろうが、Pansyは違う。

 仮にSakuraから生まれなかったとしても、PansyにはAoiの血が流れている。

 性の自覚が現れる前から、Pansyには同胞に疎まれる可能性を抱えている。

 人間の世界ではもえぎ色の色彩のルーツを教わることなく、杜では大陸の区切りではなくトビヒ族の娘としてすら認められないかもしれない。

 同時に、Pansyは混血であるがゆえに次代のグリーン・ムーンストーン最終候補となる可能性は見計らえない。

 トビヒ族としての自覚がないまま力に目覚めたグリーン・ムーンストーンの誕生により、杜の常識は経年につれ変化した。

 人型に生まれた同胞にとって、本来の姿で生まれた同胞は守るのではなく従える対象に。

 史上初の女性族長は主としてではなく、上辺だけで取り繕う対象に。

 女は生涯過去の男性族長と夫を支える礎ではなく、夫を介して杜で生きやすく打算を繰り返す狐に。

 最終候補になれなかった人型には新しい住処せかいを与えられる保証もなく、人間と同等と見なされる。

 自身は欧州人の血が濃くても、Aoiのルーツがアジア大陸の最東端にあればなおさらである。


 アジア大陸の最東端、かつて日本と呼ばれた島国は、九十年前人間によって杜が滅んだ。

 多くのトビヒ族は西へ避難し、人間として死を選んだ同胞もいた。

 Sakuraの両親は同胞の妄想を信じていなかったが、Cocoを災厄とみなす同胞も少なからず存在する。

 それでもすべてのトビヒ族に共通するCocoを称賛する要素がある。

 日本の人間の世界で生まれ育ち、Coco自身の力で神跳草を生み出したことだけだ。

 同胞をはじめCocoの反感を買わず、近い将来Pansyがどちらの世界で生きるか自分で選べるよう、Sakuraは限界まで隠し通すと決めていた。

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