第6話―多色の扉

 SakuraとPansyが杜へ越して一か月が経過した。

「ママ見て! 今日はCoco様がお話してくれたことを描いたの」

 濡れたタオルで全身の皮脂を拭った後、寝間着姿になったPansyはSakuraの前でスケッチ・ブックを広げた。

「……素敵ね。さすがPansy」

 Sakuraは一目見るだけで、お下がりの木製椅子から離れた。杜の住人となって三週目に入ると、Sakuraは引きずる足で寝室に向かいPansyとの会話を避けるようになった。

「明日の朝は湯浴みできるからね」

「うん、おやすみママ」

 Pansyはスケッチ・ブックを閉じてSakuraを見送った。

 Pansyは勉強と称してOliveの監視のもとCocoに遊んでもらい、夜は熟睡するだけだが、Sakuraは違う。

 杜の女社会に入り込み、基本的に自給自足の生活に慣れようと限られたコミュニティーの中で必死に働いている。

 欧州大陸では考えられない生活様式で精神的疲労も伴っているはずだからと、Pansyはいつの間にかスケッチ・ブックを見せるもう一人の相手を口にしなくなった。

 SakuraとAoiは近所でも仲良しと有名な夫婦だった。杜に住んでいる今では、トビヒ族である祖父のPachiraとDahliaが二人の結婚を許したのだから、Pansyの誕生を含めてSakuraの人生は幸せに満ちていたのだろう。

 幸せの一員を無惨な出来事で失った悲しみを拭えないまま、一人でPansyを育てている。

 幼いPansyにできることは、Sakuraの張り詰めた神経に棘を刺さないことと限られている。

 夢の世界では運良く逢えるようにと、Pansyは自室の枕下にスケッチ・ブックを敷いて眠りに就いた。

「Coco様ぁ、今日は木の実がこんなに獲れたよ」

「ほぅ、さすが器用だな」

 Pansyがハンカチから零れる木の実を見せると、Cocoは鈍色が薄くなった睫毛を上下に震わせた。

 これまでは鼻先を近づけて匂いを嗅いでくれたが、最近Pansyが初潮を迎えたころからCocoは何に対しても嗅覚で探ることがなくなった。

 Oliveに言わせればPansyがではなくCocoがPansyの面倒を見させられている状態であるが、Oliveの小言を聞き流せる程度に、CocoがPansyを嫌っているわけではないことを理解している。

 それでもよりも生理特有の臭いに敏感であろうCocoがPansyに離れるよう命令しないことが完全な寛容なのか、高齢に伴う体調変化なのかは幼さゆえに見分けがつかない。

「Coco様、今日もお疲れなの? 私、何をしたらいい?」

「大丈夫だ、それより今日も絵を見せとくれ。今日はOliveに何を教わったのかい?」

「今日はねアジアとアフリカ大陸の杜のこと。欧州の杜ここと同じ神跳草があるのに、木とか花は全然違うんだって。Oliveは小さいころ、Marronおじさんのお役目について行ったとかで、珍しく分かりやすく教えてくれたよ」

 Pansyはスケッチ・ブックを紙芝居のように抱え、Cocoの視線の動きに合わせてページを捲った。

「それでこんなに色が綺麗なのか。Pansyは欧州以外の杜を知らないのだろう? 隣り合わせに別大陸の杜があるみたいだ……良く描けている」

「ありがとう、Coco様。今日なんかね、色を付けていくいくうちに、Oliveは本当におじさんのことが大好きなんだなぁって分かったんだ。きっと他にもちゃんと感情があるんだって零したら『僕を俗っぽく言うな』って怒られちゃったけどね。そこもOliveらしいよね」

 PansyはOliveの小言が日常化となり、反論しなくなり三日以上経つ。初潮により自分が先に大人になったと自負し、Oliveが精神的に幼く見えたことも理由の一つだ。

「そうか」

 Cocoは一度瞼を閉じて再びPansyを見上げた。孫を面倒見るには固い視線で、小遣い長を規則的につけなかったことを咎められている気分になった。

「Pansy、お前は他大陸のに行きたいか?」

「Coco様、それってどういう……?」

 このときOliveが用で離れていたので、Cocoの周辺にはPansy以外に誰もいなかった。五本先の木々で生後二か月の本来の姿何体かが遊んでいるくらいだが、話せなくても人の言葉が分かるということでCocoは用心した。

 Pansyはスケッチ・ブックで自分のつむじとCocoの鼻先を覆い、つられて声を落とした。

「お前は最近初潮を迎えたと言っていたが、それはあくまで女としての変化であって人間も必ず同じ成長段階を踏む。しかし人型のトビヒ族に生まれたPansyに特有の変化が出ないとは言い切れん。どちらにしてもいずれお前の世界に選択肢がなくなる……父親が人間であっても関係ない」

 PansyはCocoの言う「世界」の意味を理解し血の気が引いた。トビヒ族の長に拒まれたらSakuraとPansyに居場所がなくなることは、杜の大人たちの態度で簡単に予測できる。

「私、パパのこと何も言っていないのに。Oliveにだって……ママもきっと大人たちに一言も。Coco様は人間が嫌いなの?」

「すまない。意地悪する気は毛頭なく、この老いぼれがお節介を焼いているだけだ。相手が人間か否かではない。少なくとも、この老いぼれはお前の父親を嫌いにはならんだろう。Pansyを見ていれば、父親として愛して育てたことくらい分かる。だからこそお前たちには外の世界に戻る機会が残っていればと勝手に願っている。大陸内の杜は誰もが顔見知りで、全大陸となるとガーディアンや責任のある者は皆情報が通じている。誰もがOliveみたいな同胞とは限らない。意味は分かるか?」

 Pansyは頷いた。Cocoに話を合わせているのではなく、Sakuraの心労を間近で見ている分に限り感じ取っていたからだ。

「私、やつれたママなんてこれ以上見たくない……けど、私お料理もお洗濯も苦手だし、アルバイトしたくても追い返されるだけだもん。杜でも元の世界でも、初潮がきたばかりの私じゃ何も役に立たないよ。ねぇCoco様、どうしたら早くちゃんとした大人になれるのかなぁ?」

 Pansyは割れた水風船のような涙をCocoの鼻頭に撒いた。誰にも話せない本音を先に見抜かれたことで、虚勢を張る意味がなくなったからだ。

「難しいことを訊くな。老いぼれが今のPansyと同じころは今よりこどもだったし、それこそ自分がトビヒ族であることすら知らなかった。だから体が老けるばかりで精神的には今でも大人になりきれとらん」

 Cocoはスケッチ・ブックを掴む腕を嗅いだ。汗で塩分が強く、力の覚醒は微塵も感じない。

「同胞を束ねる大人の特徴は教わったか?」

 Pansyは頷く代わりにスケッチ・ブックの中でしゃっくりで答えた。

「体から色んな植物の匂いがするんだよね? この前Oliveも匂いしていたから訊いたの。匂いの次は二本足と四つ足の姿へと自由に変えられて、色んな植物を操れる。Oliveも近いうちそうなるって。あのとき鼻だけが杜の木みたいに高くなっていた。でももし私もそうなったら、もう元の世界にはいられないの? Coco様が生まれた世界にずっと戻っていないのと関係があるの? Oliveじゃわからないことを教えて」

「Oliveでも知らないことがあると思うのか」

「だって私が今まで杜のことを知らなかったように、Oliveだって私がいた世界なんて何も……ブッシュ・ド・ノエルすら知らないんだもん。同じ十二歳って言っても、心は私よりお子様だよ。大人たちがちやほやする方がおかしいよ」

「そうだな、Pansyの言う通りだ。だがOliveのことは大目に見ておくれ。覚醒し始めた以上、あの子は人間の世界では生きられん。今の時代は分からんが、少なくとも老いぼれが覚醒した当時、日本という国ではトビヒ族狩りが始まっていた。それで老いぼれの周りでは、トビヒ族も人間も嫌というほど命を落とした」

 Cocoは両瞼を閉じ、蘇る感情を隠した。

「命ってCoco様、どうして?」

 Pansyの父・Aoiは元の世界で人間が起こしたテロで落命した。同じ人間の都合に巻き込まれたのかと思うと、涙が重力に逆らい体内に吸収された。

「今日は喋りすぎた。少し眠るから水を汲んできておくれ。今日の絵はSakuraに見せない方が良いかもしれん。老いぼれの顎の下に差し込んで帰りなさい」

 その直後、Cocoはそよ風の寝息を立てた。

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