第4話―交わる色彩
「突然の帰郷をお許しください、グリーン・ムーンストーン様」
獣は四本の足を下ろしたまま、
Pansyは見ると同時に母親に倣うことができず、立ったまま固まってしまった。
時代問わず人間が最優位に立つ世界で生まれ育ったので、幻覚と現実の区別がつかなかったからだ。
「父Pachiraと母Dahliaは老衰のためあちらで土へ還りましたが、幸いにも一人娘に恵まれました。長い間この欧州の杜を離れていた私めの代わりに、親愛なる同胞より教育の恩恵を賜るようお願いいたします」
Sakuraの足元からバラの香りが放たれ、Pansyの鼻腔を貫いた。
夫のAoiと過ごした家の中に限り、Sakuraは幼いPansyを窘める状況に合わせて香りの強弱を調整していた。
学校では誰一人同じ能力を授かっていない理由を尋ねても、Sakuraは体臭が強いの一点張りだった。
強情な主張の割には、外出先では微かな香りすら嗅いだことがなかった。
Pansyが家族以外の大人に囲まれバラ一輪も見かけなかった外で嗅がされる理由を悟った。
獣の前ではなおさら、子どもの口答えや質問は許されない。
「はっ、初めまして! Sakuraの娘のPansyです。よろ……」
「慣れないことをするな。訳も分からず従えば見くびられ、後々苦労するぞ」
左右の膝で草に触れるべき体勢で戸惑っていると、Pansyの両膝は神跳草のように反発して伸びた。
上顎と舌が反発しながら唾液も乾く声が耳荒を震わせた。獣がSakuraやPansyと同じ言葉で通じ合っていることが、杜に入って一番の驚きだった。
両手の指先が鈍く痺れているが、Pansyと同じ目で見据えられても恐怖を感じなかった。
むしろ実母のSakuraに叱られた後に慰めてくれる祖母の慈しみを感じた。Pansyが幼少期に亡くなったDahliaがそうだった。
「Sakura、私に大げさなことを期待するな。子ども同士で遊ばせる方がこの子の性に合っているかもしれんぞ。どうだOlive?」
「はい、グリーン・ムーンストーン様の仰せのままに」
獣の体毛から少年が生えた。
実際には獣の傍らで膝を折り控えていたのだが、Pansyにとっては初めて見る獣の方がトビヒ族かもしれない人間よりも存在感が強かった。
少年の髪は金髪に近い栗色で、木々の隙間から漏れる日差しを受けると髪が緑の薄いベールを纏っているように見える。
前髪は麻のような紐で一つに結わえ、流れに沿って後ろ髪と一緒に後頭部で束ねている。
父親のMarronと同じコットン・スノーの肌には、ラズベリー・ジャムのような紅潮が見えない。吊り目の焦点がぶれていないことから、Oliveが賢く沈着で、なおかつ自分に自信があることを物語っている。
「僕はOlive。Pansy、杜のことは僕が何でも教えてあげよう」
「ありがとう、助かるわ」
Oliveは握手を要求せず、Pansyは小首を傾げてほほ笑んだ。個人的に好まないタイプではあるが、Sakuraのお願いを無下にしたくなかったからだ。
「MarronとViolaは務めに戻って良い。Iris、Sakuraに住処を用意しなさい。男手が必要ならば遠慮させないように」
「ありがとうございます、グリーン・ムーンストーン様」
頭を深く下げたままのSakuraに対し、三人のガーディアンは
「Pansy、後で迎えに来るわ」
「Olive、うちの娘をよろしくね」
IrisとSakuraは後ろ髪を引かれるように獣から離れた。
見送るPansyの右手のひらに大人四人の後ろ姿がすっぽり覆われると、Oliveの声が半オクターブ程度高くなった。
「さぁPansy、早速案内しよう。分からないことはその都度聞いて良いからね」
Oliveが未だに化けの皮を剥がないことは、Aoiが亡くなるまでの学校生活で積んだ経験で感じ取った。
Pansyのクラス、小学校の各学年にも最低一人は同じ性根の生徒がいたからだ。
「うん、そうする。でもその前にもう少し待っていてくれる? 私、お土産を持ってきたの」
「土産? グリーン・ムーンストーン様にかい?」
Pansyは獣の前に進み、黄色のバック・パックを下ろした。
「ママも私もこっちに来るまで忙しくてお店で買って来たんだけど、食べてくれるかなぁ……ってもぅ、最悪」
バック・パックの中身はSakuraの注意通りホット・ケーキの茶色いペーストが世界と化していた。神跳草の弾力とMarronとの衝突が原因だった。
同梱した鉛芯の鉛筆は手縫いのペン・ポーチが盾になってくれていた。紙製バッグの隙間からペーストが漏れていたからだ。
「えっとあなた、じゃなくて
「捨てろ」
Pansyは獣の両眼を正面から覗いた。大きな口と牙で噛み殺される危険性はトッピングのアラザン一粒も思い浮かばなかった。
トビヒ族に取り入って器用に立ち回ろうという魂胆は最初から無く、Aoiの祖先から続く礼儀に倣った挨拶に失敗した些細な焦燥がPansyの全神経を駆け巡っていた。
「こんな不自然な甘ったるい臭い、トビヒ族の世界に持ち込むな! ましてやグリーン・ムーンストーン様を害しようなんて、お前の神経はどうなっている?」
Oliveの低い声がPansyの逆立った産毛に稲妻を落とした。
「害ですって? 確かに私、粗相しちゃったけど、いつだってわざと相手に嫌な思いをさせた覚えはないわ! それにケーキ自体は食べると楽しくなるんだから。食べたこともないくせに偉そうなこと言わないで」
PansyはOliveの自尊心を受け流してやり過ごそうと決めていたが、一方的に隔たりを置こうとする暴言には耐えられなかった。
「お前の常識はどうでも良い。僕はトビヒ族とグリーン・ムーンストーン様のことをだな……」
「Olive、お前らしくないぞ」
獣がこれ以上の主張を許さなかった。角の生えた頭部を動かすだけで圧力の流れを読み取れた。
「Pansyにもそれなりの事情がある。それを汲んでトビヒ族の生活に導けるのは賢いお前だけだと思ったんだが、この老いぼれの勘違いだったか?」
「滅相もございません」
「ならばまずこちらも精いっぱいの儀礼を認知しなければな……ところでPansy、これは何というけーきだ?」
獣はバック・パックの中身に鼻を近づけた。
Pansyの世代では低カロリーで天然素材の糖原料が一般的だが、同い年のOliveが顔を歪めたほどだ。自らを老いぼれと称する獣の嗅覚を刺激するかと思ったが、思いのほか瞼が半開きになるだけだった。
「ブッ、ブッシュ・ド・ノエルです! 冬だけじゃなくて、一年中美味しいんです、ここのお店のは特に。グリーン・ムー? えーと」
「ブッシュ・ド……そうか、後で食べよう。出しておいとくれ」
「良いんですか? こんな潰れちゃったのに」
「構わん」
獣の返事はPansyと同い年の少女に近い、好きなものへの興奮を抑えた声だった。
もしも獣が人間の少女であれば良い友人になれただろうかとさえ思えたが、この身が杜の中にある以上体内に留めることにした。
「Olive、まずは手洗い場と洗濯場を案内してやりなさい。それと毎度言っているだろう、大人がいないところでは堅苦しい肩書など口にしなくて良いと」
「はい、
PansyはOliveではなくCocoと呼ばれた獣に小首を傾げた。
「グリーン・ムーンストーンとは代々の族長が受け継ぐ名称であって、生まれ付いた名前ではない。お前もOliveと一緒にいるときは
「Coco様ですね、分かりました」
Cocoは頷きもせず、鼻先でOliveに指示した。
「Pansy、行くぞ。Coco様は長年のお務めでお疲れなんだ。休ませて差し上げろ」
「そうだね。私も手がべたべたで気持ち悪いし」
「それは完全にお前が悪い」
「いちいち言わなくて良いわよ」
Cocoはその場に横たわったまま、反発しあう二人を見送った。
今代グリーン・ムーンストーンは何も問わず、SakuraとPansyの母子を迎え入れた。
このとき彼女はトビヒ族最高齢の百八歳。
本名は村雨瑚子である。
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