第23話―日射より熱い疾風

 見つかりませんように。

 見つかりませんように。

 絶対見つかりませんように。


 絶対、絶対、絶対! 見つかりませんように!


 瑚子はフェイス・タオルの両端を握り締め、頭部で亀裂が生じかねない圧をかけていた。ボブ・ヘアに静電気を送りたいがためではない。

 長崎市総合運動公園の最後列、猫背になれるよう夏服と同色のキャミソールの裾をスカートに入れている。

 ことわりを侵してまで市鳥のはとが飛び狂い、観客席を覆ったとしても、鳩の視野を毒す可能性を〇.一パーセントに抑えられる自信がある。

「村雨さん、私たちの隣でもどうどがん? そんなそがん所よりは試合の観易みやすかよ」

 三人並ぶ女子生徒の内、一人が六列手前の空席へ手招きした。瑚子のクラス・メイトではないが、三年次の選択授業で同席している。

 奏真館の普通科では二年次で文系と理系でクラスが分かれる。瑚子は二年次で転入したので、学年末のテスト結果にて完全に文系のカリキュラムを組まれた。

 瑚子の中では、志望する進路のビジョンは快晴時の気持ちばかりの雲より薄っぺらだ。

 それでも担任の意見に承諾したのは、数学と化学のお情けとも言い難いテストの結果と、進級時に二教科の授業一切受けなくなる利点以外に理由はない。

 彼女たちとは二度、数式と化学公式という魔の呪文から解放された快感を共感した。瑚子が受けるべき授業から気が反れた罰として、通常の二倍ほど課題が増えた。

「せっかくやけど、今日はこのこん席にしとく。ありがと」

 瑚子はフェイス・タオルの一端を放し、デコルテの高さで手を振った。

 手を振り返したのは、瑚子を誘った大岩おおいわ円香まどか。二週間前、古文の小テストでは瑚子の成績と最も近かった。

 伸ばしかけのボブ・ヘアを左右の耳下で束ね、中学テニス部の日焼けで髪全体が赤茶けている。

 円香と一席挟んでいるのは江崎えざき杏奈あんな。座高が円香より瑚子の拳一つ分高く、ベリー・ショート・ヘアが長いうなじを強調している。

 二人に挟まれているのは、日米ハーフの松石まついし百世ももよ。ブロンズの色素を一割ほど抜け、肩甲骨まで伸ばしたハーフ・アップは、母親の血が濃く表れているからだと百世から聞いたことがある。

 円香と杏奈を見下ろせる百七十五センチの雌豹体型の百世は、男子生徒の好意を一切受け取らない。

 常に三人で行動しているが、百世は同じクラスで幼馴染の円香より、別クラスの杏奈と親密な距離で肩を並べている。

 この日も、百世と杏奈は座席の隙間で手を重ねている。

「――まーちゃん」

 フェイス・タオルが瑚子の唇ごと、懐古の声を拭った。

 寄り添える友人が無い者同士、高等部で出会った日から一枚ずつ、心のアルミ箔が剥がれた。

 二年間同じクラスだったこともあり、陸上部と無関係な時間をも共有した。

 真奈美の高等部入学に合わせて、家族全員で長崎県北地区から転居したと聞き、瑚子が浜町アーケードを案内した。

 陸上部の練習が休みの日は、趣向を変え夢彩都やココ・ウォークを案内し、互いの趣味も理解できるようになった。

 約十八年の人生において真の友人と呼べるのは、谷崎真奈美ただ一人。

 八月九日の登校日以来、一度も真奈美にメールすらできなかった。

 利矢に信じがたい事実を告げられ、その夜チョウに裏切られた。

 結局、雪平家の世話になった夜、種族とは無関係に好感を抱けない者に囲まれ涙を堪えられた。

 田んぼの沼に沈んだ代替で正晃に三台目のガラケーを購入してもらった後、覚えているメール・アドレスに空メールすら送信できなかった。

 雪平家でできたことに比べると忍耐度は低いはずのことを、真奈美に対しては何もできていない。

 本来ならば真奈美を、聖マリアンヌ女学園を恥じることなく応援する権利はある。

 自宅の浴室から無地のフェイス・タオルを引っ張り出してまで影になりきるのは、トビヒ族のことはおろか、村雨瑚子として懺悔する覚悟がないままときが流れたからだった。

「村雨か、久しぶりやね!」

 瑚子のフェイス・タオルが背後から引き下ろされた。

 白のチノパンを履いた両足が重力に逆らいながら折れた。臀部が座席に触れる瞬間、接続金属部の軋みではなく校庭に集中した若葉の香りを教室に運ぶしなやかな風が吹いた。

「部長! なしてここに、グラウンド出らんで良かとですか?」

「村雨、この湿気と高温で頭のだいぶやられているねやられとるごたるね。今は福岡県のK大学一年、陸上部の大野美鈴やけん」

 聖マリアンヌ女学園にて陸上部部長を務めた美鈴が、私服姿で瑚子の頭部を撫でた。

「髪、伸びたとですね。よく似合っていますよぅにおうてます

「そういう村雨も。眼鏡かけているんだからかけとるっちゃけん頭を鍛えていたんでしょあたまばきたえとったとやろ? 大事にしなさいよせんばたい

 美鈴は瑚子が持っていたフェイス・タオル越しに頭部を撫で、その上に美鈴のバックから出したキャップを重ねた。

「でもそんならぶちょ、じゃなくて大野、じゃなくてえーと美鈴先輩?」

「村雨が呼びやすか方で良かよ。あれやろ、私がなしてここにおるのか聞きたかとやろ?」

 美鈴の両端に垂らした前髪の先がフェイス・タオルに絡まる。バックのヘアは一つのお団子にまとめている。

「あれさ、いわゆるスカウトってやつ。元部長としては母校の陸上部情勢が気になるし、何よりに本来の実力ば取り戻してほしかとさ。今K大学には長距離選手が足らんし、長崎に来たことの無か部長さんの案内も兼ねてね」

「あいつ?」

 路面電車が転倒するほどの勢いで、瑚子の裸眼が脈を打った。

 美鈴が怪我しないよう、フェイス・タオルを両手に掴み、眼鏡のレンズを被せた。

「まさか連絡取っとらんとか? そりゃ気持ちもタイムも落ちるわな、あの村雨バカは」

「まーちゃんが?」

「何とか高総体には出るごたるけど、九州大会が良かところやろ。谷崎はバカやけど実力だけはある。先輩としてK大学に連れて行かんば。村雨にも事情のあるやろうけんって何度も言うたとけど、こっちが強引に環境ば変えんと理解できんやろうな」

「うち、あや――」

「そろそろ千メートル走の始まるね。ー、ちゃんと見とってくださいねー」

 美鈴は最全席に向けて左手を錦に変えた。瑚子より短めのショート・ヘアが後部席に振り向いた。

 前髪は眉と額の毛根の中間でカットしている。黒のサングラスをかけ、左手にはスマホを横向きに握っている。Tシャツからバスト・ラインが見えた。

「部長さん、女性なんですね。K大学も共学やけん、男女で分かれるとですね」

「いや? 他は知らんけど、うちの大学は男女の総合部長があの人あんひとよ。次に男女それぞれを仕切り部長のサポートばするとは、そうね、共学で言うキャプテンってとこやろうね。部長の二番手のポジションが、男女に一人ずつるってうたら分かり易いかなやすかかな

 瑚子が唇をアルファベットのIの形で十秒維持していると、美鈴はフェイスタオルの隙間に右手を差し込んだ。

「ふゃっ!」

 ビーズ・クッションの端を握るように、瑚子の左頬が手のひらに包まれた。

「あんたが陸上ば辞めた理由の終わって、走りたい気持ちの溢れたらいつでもうちば見学したら良か。今福岡行の切符はネット予約だと安かし、私が市内ば案内してやるけん。あんたの好きなスイーツ・ショップの数だって、長崎の十倍は軽く超えるし選ぶとの楽しかよ」

「先ぱ、マリア様のごたる――一生分の奇跡を使い果たしたかもしれんです」

「そこは素直に礼を言いなさいいわんね

 瑚子が俯くと美鈴は右手を放した。誰にも見られないように、瑚子は眼鏡の隙間からフェイス・タオルの端で涙を吸った。

「そういや村雨、汗臭い顔に触れたとに何か良か匂いのするね。ミカンのようなライムのような」

 右手を嗅ぐ美鈴の意図が見えず、瑚子を包む世界が半年前に逆戻りした。


 瑚子ちゃん、良か匂いのする……ハウステンボスの花畑のごたる


 友里子が村雨家を出る前夜、瑚子への変わらぬ愛情故の比喩と思い込んでいたが、美鈴に言われる瞬間まで不審な点に気付かなかった。

 その後滅多に買い物に出かけない正晃が、決算セールを狙って空気清浄機を買ってきた。

 友里子を倣って部屋の換気はしていたが、一時は新型感染病の影響で窓を閉めたままの日が続いた。

 瑚子の健康を考慮しての行動だと思い込み、あえて正晃に訊かなかった。

 正晃もまた自宅での瑚子の言動に細かい口出しをせず、空気清浄機を使わせる理由も言わなかった。

 しかし三学期が始まると、奏真館ですれ違う教師が口を揃えて注意した。

 瑚子はファッションや流行に疎く、香水の類を今でも一つも持っていない。

 匂いの原因と言えばシャンプーの香料もしくは朝食での焼き魚の移り香のみで、他に思う節が浮かばない。

 教師の一人がしつこく言及したので、瑚子自ら持ち物検査を申し込んだ。

 一人の教師につき一回の検査、日を置いて十回目の検査が終わると誰も瑚子を注意しなくなった。

 それでも全体的に教師は、瑚子を今までのように女子高出身の転校生として見なくなった。

 奏真館に関しては気に病む要素は見当たらないが、瑚子が瑚子でなくなるような曖昧な不安は消えなかった。

 数か月経ち、今度は美鈴が瑚子の精神を追い込んだ。

 美鈴に悪気が無いこと、美鈴は人の気に障る言動をしないことを知っているだけに、胸が痛んだ。

「村雨?」

「うち、帰りますけん。引率の先生に言ってきますいうてきます

 瑚子がカバンを抱え立ち上がると、美鈴は左手を掴もうとした。

「熱中症か? 急に動いたら危なかけん、とりあえず座っとかんね。今アクエリばうて――」

「美鈴!」

 和太鼓より重く、黒板のひっかき音よりワン・トーン低い声がグラウンドの騒動を教えた。

「部長! これはどうなっているんですかこいはどがんなっとるとですか

どうもこうもどがんもこがんも、美鈴のお気に入りの谷崎真奈美が出てこないからでてこんけん、対する選手が走られないのよはしられんとさ。聖マリアンヌ女学園の監督も、お偉いさんとの交渉とかケータイにかけたりで大忙しみたいだよのごたる

 K大学の部長が最後部席へ駆け上がる。膝の頂点が高く、声が取り乱している割には足取りが軽い。彼女はハードル走か幅跳びの担当では、と瑚子は踏んだ。

「部長、私が監督に聞いてきますけん、後輩の傍にってくれますか? 村雨は落ち着くまでここに――村雨!?」

 瑚子は前席に左手をつけ、荷物の少ないカバンを脇に抱え飛び越えた。

 人間であれば選手でも転倒しかねない段差を五つずつ跨ぎ降り、観客席から選手の通路へ駆けた。

 現役時代この場で試合を繰り返したので、記憶が足に伴っている。

「村雨って、あの聖マリアンヌ女学園の村雨瑚子? どうしてなしてあの足でリレーのアンカーばしとったと? ってか制服が違わないのちがわん?」

 部長の立ち位置から六列離れた席で、奏真館の円香たち三人の毛先がタンポポの綿毛の重力で体に触れる。

「今のなん、突風? しかもシトラス系の匂いがしなかったのせんかった?」



「あいつ、今まで出し惜しみしとったと? 何のために?」


 美鈴の声は、疾風の余韻に引き付けられている部長の耳に入らなかった。

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