第22話 2020年6月25日―思い出を受け取らない空
午前八時、部屋に入る日差しは満開のヒマワリの樹のようで、電灯がなくても秒針の動きを捕らえられる。
毎年三月から十月までの間、文月と葉月の気温が繰り返し続く。瑚子が学期内に長崎市特有の朝を迎えるのは、九か月ぶりだった。
この日は長崎県高総体応援期間の内、長崎市総合運動公園にて陸上競技の一部種目が行われる予定で、瑚子に振り分けられた応援担当だった。
正晃の義母・久江の形見である眼鏡、奏真館の夏服を乱さず着用しているが、瑚子は自宅の衣装ケースからのぼりを天井に向けて降ろし続けていた。
「無か! 無か! 無か! なして一枚も無かと?」
誰も座っていない天井が受け取るはずもなく、十五枚ののぼりは瑚子の頭部を跨ぐ。背後に配置してあるベッドに届かず、いずれも不規則な折り目をつけて床に着地する。
「もう、急いどるとに! あれに頼るしか無かってこと? 嫌、そいだけは嫌けど……わ! もう行かんばバスの混む!」
衣装ケースの引き出しを押しのけ、クローゼットを占めた。カバンの取っ手を掴みドアへ駆け出そうとするが、一歩目が着く前に全身が硬直した。
「き、
瑚子の足元には一瞬だけのぼりだった、統一感のない柄のフェイス・タオル十五枚が瑚子を囲むように弧を描いていた。
花柄が三枚、いずれも瑚子の手の甲程度の大きさが密集している。他にゲーム・キャラクター柄が五枚。その内二枚は真奈美とお揃いで購入した。
残るはスポーツ・ブランドのロゴが入った三枚、高総体の県予選、九州大会、インター・ハイの各会場にて二年で集めた限定柄が合計五枚。
十五枚とも原色がベース・カラーなので、最後列の観客席にいてもグラウンドから目立つ。
「うわっ、目の
ドアの一点が響き、瑚子は空いていた左手で唇を覆った。現在この家に住むのは瑚子ともう一人。もう戻ってこない友里子を口にするのは、呼吸と同等の自然な流れで禁句となっていた。
「瑚子、いつまでのんびりしとるとや? 先に仕事に行くぞ」
「あ、待って!」
瑚子は耳下まで伸びたボブを扇風機のファンのように乱し、ドアノブを掴み引いた。
「瑚子、
正晃は娘の髪型より背後の床に全神経を持っていかれ、通勤カバンと弁当バッグを落としてしまった。プラスチック製の箸入れが風情のない鈴の音を鳴らした。
「うちがそがん器用じゃなかと、分かり切っとるたい! そいよりもあーどがんしよ、遅刻したら余計目立つけん……もう
「何に使うか知らんばって、タオルなら脱衣所に置いとるたい」
瑚子はこれまで見落としていたものを取り戻そうと、正晃の前をすり抜けた。
焦燥が脚力に現れ、階段を五段ずつ跨いだ。白い靴下を履いただけの両脚でもバランスを崩さず、壁やドアにもぶつからず、五秒で浴室の脱衣所に辿り着いた。
「瑚子! ったくあいつの年頃はいつ来るとや? もうすぐ十八歳になるとに
正晃は瑚子の部屋へ三歩進み、カバンを拾った。金具の摩擦で、取っ手の革に糸目の皺が無数に刻まれている。
「ここまでになっとるとか。そろそろ限界かもしれんな」
正晃が握力を抜いてドアノブに触れると、ドアにかけたプレートが小雨の音でノックした。
瑚子の部屋では、正晃の提案で空気清浄機を二十四時間稼働している。
それでも正晃が納得する効果が表れていないのは、二月の決算セールで購入したからではない。
正晃の二人目の妻・友里子が去った前日から、瑚子の放つ匂いが日毎に強くなっていた。
この日正晃が感じたのは、ヒノキ風呂に植えたローズ・マリー畑だった。
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