第24話―虚無の分身
「監督!」
「ちょっと君、選手
奏真館の制服と協議に適さないローファー姿の瑚子を、審判の男性が腕を掴み阻んだ。
聖マリアンヌ女学園陸上部の監督・百武佐奈子の右腕に瑚子の爪が当たった瞬間だった。
「離してください! うちは
瑚子の目線は佐奈子へ一直線だった。審判の顔を見なくても、煙草と酒で枯れ酷使した声を聞けば四十歳以上と分かった。
「監督! まーちゃんは――」
「村雨!
佐奈子は耳からスマホを離し、ジャージの脇ポケットに深く差し込んだ。
「百武監督、この生徒を
「知るも何も、彼女は去年まで、うちのエース
審判の緩んだ握力を振り払い、瑚子は初めて顔を見た。予想以上に外見年齢が上だった。
日焼けした肌は目尻にちりめんじゃこの皺が刻まれ、スキンケア文化が浸透していない男性らしい荒れ方だった。
「村雨――
「ああ、村雨はインター・ハイ前に転校しましたけん。ご家庭の事情で。監督が人さまの家庭に首突っ込む権利なんか
瑚子の腹底から集合時の号令が湧き上がる。一ミリも違い覚えの無い声量で、佐奈子を肯定した。
「家の事情があって、今まで一度もまーちゃ、いや谷崎さんと連絡
瑚子は意識なく佐奈子のジャージ両腕部分を掴んでいた。佐奈子はそのことをあえて言わなかった。
「お前たち、本当に
「ありがとうございます!」
瑚子の喉から爆発したのは、陸上を始めた当初先輩から叩き込まれた強制的な声ではなかった。
陸上から離れた後も変わらない態度、許しの懇願を受け入れてもらえたことに対する感謝で声量を抑えられなかった。
瑚子はグラウンドの最外壁に寄り添い、佐奈子の助言通り奏真館の職員室へ連絡した。
さらに甘えて佐奈子の名前を告げると、瑚子の経歴を知っているので早退として承諾してもらえた。
視界の脇では佐奈子と審判が口論を再開して、ようやく真奈美のいないレーンが走り出した。
佐奈子が瑚子へ声をかけてくるまで、カバンに入れていた麦茶を飲み干そうとした。友里子のいない生活では水筒の手入れが面倒で、毎回コンビニやディスカウント・ショップでペット・ボトルに入ったものを購入している。各店カードのポイントは貯まるが、虚無感の蓋を塞ぐことはできなかった。
あと一口でペット・ボトルが瑚子の心情をコピーできると思った瞬間、佐奈子が駆け寄って来た。息が乱れているのは、現役を引退して間を置きすぎているからだと思っていた。
「村雨、今からうちの顧問の車で大学病院に行け! 私は部員に伝達してから追う」
「大学病院? 監督、谷崎さんに電話
「事情が変わった。あいつの番号で看護師さんが出た。このグラウンドに向かう途中、何者かに両ふくらはぎを切りつけられたらしい。自力で救急車を呼んですぐ、気絶したと言っていた」
瑚子の鼻腔を、ライムを凝縮した二本の氷柱が突き上げた。ハナサキ族本来の姿での利矢が後頭部から前頭部へ貼り替えられた。
トビヒ族が同胞の援護に無頓着であれば、他に人間を襲うのはハナサキ族しかいない。
利矢が頭蓋骨内部に粘着したのは、音楽科の特権を噂で聞いたからだった。
音楽科はジャンルの異なる音楽部への入部が必須であり、高総体期間中は高文連とコンクール出場を控え運動部の応援義務が免除される。
音楽各部の内情までは把握していないが、頭が良く器用な利矢であれば練習を休むことも遅れて参加することも可能だった。
瑚子の疑惑が決定打になったこと。瑚子が全国レベルの陸上選手だったことを利矢が知っていることだ。
仮に瑚子の父・正晃と裏で手を組んでいたのであれば、疑いの確証、真奈美の擁護は瑚子にしかできない。
「大学、病院ですね?」
「そうだ、今顧問が車回しているから――」
「
瑚子が背を向けると同時に、その場で砂埃が逆ピラミッド型に上昇した。
佐奈子がジャージの袖をマスク代わりに当て咳をしている間に、瑚子の姿が消えていた。
「村雨、早めに引退して良かった
佐奈子はキャップと分離した空のペット・ボトルを拾い上げた。
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