第25話ー奪われた道
「まーちゃん!」
瑚子の両手足が校庭花壇のノズル・シャワーと化し、汗を白一面の壁や床にばら撒いていた。
病室のドア・ノブを掴むと、浸る右手が時計方向へ半回転した。
「まーちゃ、ん?」
ギプスをはめた両足に血は滲んでいないが、瑚子の裸眼に血脈が激流した。
ベッドの下半分は三十度ほど傾き、上半分はその倍ほど上がっている。
真奈美が瞼を半分以上伏せているのは、木の葉の日光反射が唯一の理由ではないはずだった。
革と底が軋んだローファー、いまだに破水している両手足の大雨、瑚子は六つの足跡をベッドまで連ねた。
感情と勢いに任せ瑚子は病院まで向かい、絶望で塗りつぶされた真奈美の姿までは考えに及ばなかった。
六.九キロメートル、瑚子が自分の足でコンクリートを蹴り続ける間、真奈美を指導する佐奈子は瑚子の到着に合わせ院内での情報共有に成功した。
面会の許可を得た瞬間から瑚子は自分の気質を踏み潰したかった。佐奈子の冷静な行動に反した瑚子を別の行動に替えることができなくなっていた。
変わらぬショート・ヘアの影だけ、カラスが日の入りを覆った色をしていた。正午前の薄白い日光とどちらが正しい時刻なのかが分からなかった。
「その声――瑚子? 瑚子っ!」
「うちが行くけん」
上半身がベッドの柵を乗り越え、瑚子がBカップのバストで真奈美の頭部を受け止めた。
「瑚子、夢じゃなかよね? もう、今まで
腰に絡まる両腕で引き寄せられ、瑚子のスカート丈が上がる。
「まーちゃん、
「ちっぱいなところも、瑚子は
「大袈裟。しかも認めとるし」
瑚子は縋る真奈美の肩を離した。水を
瑚子のシャツは炎天下を走った汗と真奈美の涙で区別がつかなかった。
「今まで本当にごめんね。うち、まーちゃんに連絡ばしたくて毎日ガラケーば握って寝ていたと」
「私も瑚子に会いたくて、毎週家に行った
吸収の限界に達したキャミソールが氷の板に変わった。
「ママに、ってどういうこと? しかも家に来てくれとった? 聞いとらんし」
両足の筋力が耳腔から抜けた。真奈美の地雷を踏む覚悟で、ベッドの端に両手をついた。
「ごめんばってか、もっかい説明ーーば」
真奈美の声が日差しに溶けて反射した。
揺すられる肩で、真奈美が何か言っているのは分かったが瑚子の全身が音の振動を一切受け付けなかった。
誰もが好んで粘着のある日照りを見上げていない。
だからこそ隣のパーキング・ビル屋上から真奈美の病室を堂々と見下ろせる。
人型と長い角が生えた四つ足の獣、一つずつの影が。
人型と焦点が合い、膨張に似た痛みが両眼に流れた。顕微鏡で日光を見る代償を言語化できないのが悔しいほどだった。
見えない縄を介し、瑚子の血管に三センチ大の小石が流れ込むような騒動が全身を巡った。
両眼〇.九の視力であっても、通常であれば目の色彩やコンタクトの装着有無までは特定できない。
実際瑚子はビル屋上に設置された外灯の数は把握できず、見えない縄で繋がれた先のみ千倍以上拡大され視界を占拠されていた。
縄の先は瑚子と同じ裸眼だった。
隣の獣のシルエット細部は見えなかった。
それでも利矢から聞かされた特徴と大体似ていること、ハナサキ族の利矢が一度見せた本来の姿に似つかないことから、トビヒ族本来の姿であると悟った。
「あいつらがまーちゃんを――」
犯人と言葉を交わさなくても動機は瑚子の中で確定していた。
シャワーの気泡より細かい粒子が全身の肌を巡り、頭皮には練乳より粘度がある微痛が刷り込まれる。
ふくらはぎ、太もも、背中、腹部、バスト、肩、腕、指先、顔部。
人間を模るすべての部位から、怒りに混じりけのある感情が億の針で穴をあけ外に出ようとしている。
「かはっ、こ、瑚子」
真奈美は瑚子から離れ、
「う、がっぁ――」
瑚子の痛みは全身より頭部が強くなり、鼓動が激しくなるにつれ針の痛みを感じなくなった。
この場でひざを折っていれば、瑚子自身の変化を最初に察知できていた。
「瑚子、どこに
ドクダミの群生は一点に吸収され、真奈美の視界と呼吸が自由になった。
「まーちゃん? うち、ここに
「なしてあんたがその呼び方ば
真奈美は震える右手を枕で払い、瑚子は異物を初めて認識した。
「瑚子をどこに隠したと! 瑚子は私の、私の瑚子を返してよ、この――バケモノ!」
脳と心臓に握力を感じた。鼓膜が疼き、このまま失聴にとの懇願が喉を押し広げ詰まらせていた。
「なして、なしてあんたも私から瑚子を引き離すと? 私の天使を
枕、プラスチック製カップ、キャスター付きのベッドテーブルが飛んできた。
瑚子が尻もちをつくと、真奈美はメガホンの声で滝汗の涙を流した。
現実から逃げたかったが、両耳を覆うことはできなかった。皮膚に違和感があった。
腕、手、顔面に鈍色の硬い毛が生い茂っていた。膝にも触れると、同じ毛が元の皮膚色を完全に消しているが体のラインは人間のままだった。
最も痛みの強かった頭部にも触れると、百円ショップで販売されているパキラの幹同等の太い角が生えていた。
自覚無しにトビヒ族本来の姿になりかけている事実が、真奈美に拒まれた瞬間より鋭く重い刃として瑚子を突き刺していた。
「うちが、あいつらと同じ――? そがんといや、ばい」
瑚子は筋力の抜けた体で立ち上がり、足を引きずって病室を出た。入浴時、無意識に人型に戻っていることが分かり、すれ違う人間に声をかけられなかったことに納得した。
仮に他の人間に奇声を挙げられても、瑚子が杞憂する理由がない。
その晩は正晃と一言も交わさず、夕食も摂らずベッドに沈んだ。
体は路面電車一台を背負うほどの重みと倦怠感があったが、一睡もできなかった。真奈美の嗚咽が鼓膜をちぎろうとしていたからだ。
翌朝、気まぐれに点けたテレビが瑚子から現実逃避の選択肢を奪った。
――今朝、何者かが長崎大学病院に侵入した模様で、患者がベッドで死亡しているのが確認されました。
『被害者は十八歳の高校生、谷崎真奈美さんで――』
トビヒ族は正真正銘のバケモノだ。
村雨瑚子もその一体である。
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