第26話 2020年7月30日ー背中を失った未来

「村雨さん、集中できないなら保健室で休んでいなさい。それか次回のテストまで自宅で安静にすること」

 訛りのないいかりが頭上に落ち、瑚子の視界で線に色彩が集結した。

里崎さとざきせんせ? どうしたんですかどがんしたとですか

「あなたこそプリントが全然進んでいないじゃないの。それ、宿題にしておくから早く帰宅なさい」

 吊り目にスクエア型の眼鏡をかけ、里崎は初対面の生徒の九十パーセントから怖がられる。

 長崎県出身の夫と結婚するまで東京都で生まれ育ったこともあり、生徒にとっては共感できる要素が少ないことも敬遠する理由の一つであった。

「保護者の方は今日ご在宅? こちらから連絡しておきましょうか?」

「や、大丈夫よかです。仕事と思うんで」

 瑚子は里崎の目を見ずに起立した。子どもがいなくても、里崎は家庭を持っているだけありどの教師よりも親心を理解している。

 瑚子は本人の思いやりに非がないこと、異性の正晃とはまったくの別人であることを十分に理解していた。

 それでも瑚子は復習すべき漢文の法則より、最も見たくない顔を先に思い出すことが許せなかった。

「ちょ、村雨さん顔が真っ青よ。一人で帰れると?」

 隣席の大岩円香が瑚子の右腕に人差し指と中指を当てる。

 その腕が電流で跳ね、唾液が棘化して喉を刺した。

「ごほっ!」

むせちゃった? マジごめん!」

「や、平、気。熱、無かけん」

 瑚子は指を掛け、上履きを引きずり教室から出た。

 夏休みの受験対策教室が始まり、続けて苦手教科の対策補習に最後まで参加できない日が多かった。

 理由は一つだけなので、早退や保健室行きが続いても、瑚子を責める教師や生徒は誰ももいなかった。


 真奈美の葬式以来、真奈美の家族と顔を合わせていない。

 葬式では会場入り口の花輪が倒れる声量で裸眼と喉が枯渇するまで涙した。

 感情を詰めた血管がうねり始めると、同席した佐奈子が男性用コートを被せ、瑚子を外に連れ出した。

 そのまま杜を経由して帰宅するよう指示が出ると、佐奈子もトビヒ族であることを知った。

 忌明けのこの日まで、真奈美の家族を避けようしたが、ゆく先々の顔が統一してマネキンだった。

 葬式ですら喪主の横顔も見ていないので、自宅に駆け戻る他に道がなかった。


 瑚子の足元は夜空に、頭部は沼地にまり天地が逆転していた。

「駅、は? ここ、どこ?」

 奏真館を出て諫早駅に向かっているはずが、スーパー裏手のアパート街に入っていた。

 瑚子の頭上では街灯に羽虫の群が自身で巣を作り、ガラケーの機能では午後二十時を回っていた。

 画面には時刻の下に電話着信の二十一件、メール受信の四十二件の通知が出ていた。詳細を開かなくても発信と送信相手は分かっていた。

 前校の先輩に返事する気になれず、一度も開封していない。

 またガラケーではナビ機能が当てにならないので、瑚子の背中が向く方向へつま先の時針を逆算しようとした瞬間だった。

 二つ奥の外灯が人影の性別を照らしていた。

 臨月に近い女性がマイ・バッグを両手に提げていた。スイカの中玉が入りそうな二袋が妊婦の息を乱していた。

 羊水に包まれた胎児を前に抱えているにも関わらず、途中でマイ・バッグをコンクリート地面に置かず瑚子との距離がますます広がっていた。

 角度で腹部が見えなくなっても、瑚子は目が離せなかった。

 実父の正晃と別れた友里子は、継子である瑚子の方が友里子と結婚していたのではと思うほどの愛情を注ぎ、一度も献身の見返りを求めなかった。

 本意の有無無しに宿った命を捨てる真似が友里子にできるとはホッチキスの針一本分も考えられなかった。

 通常の妊娠では八週目でつわりが生じる。瑚子が村雨家のトイレで現場に遭遇し七か月過ぎているので、外灯から離れる妊婦と同じ状態と見て妥当だ。

 瑚子のつま先は妊婦に向かっていた。遅い帰宅で正晃に小言を言われることより人助けを選ぶ前に、体が動いていた。

「待って」

 右手が前へ伸びると、二本の疾風がこめかみを切った。速度で香りの正体を把握できなかったが、薬草であることを確信した。

 先月佐奈子に指摘された瑚子の体臭と同類であれば、数十秒先の未来は次月の生理日と同等の簡単な予測だった。

 瑚子はガラケーをポケットに流し込み、カバンを放り疾風の間に全身で亀裂を刻んだ。

 途中で背中が曲がったことに気付かず、駆け出して十秒後には妊婦の前で構えた。

 振り向いた妊婦はマイ・バッグを二袋ともコンクリート地面に落としてしまった。

 妊婦の視界には人参色の角が生えたオオカミが三体、その内一体は奏真館の夏服を着ていた。

 茹でると灰汁が鍋の九分の一程度を占める異臭が三種も交わり、妊婦の鼻を刺激した。

 一体と対峙する片方がマグニチュードの唸り声を上げ、もう片方は人の言葉を発した。

「どけ、小娘」

「あんたらこそ杜に帰れかえらんね

 灰色の逆立ちは人間の服を着た一体が最も激しく、雲丹の棘が手縫い糸に相当するほどの感情が触れなくても伝わった。

 対する二体は芸能人より感情が読めない。外灯が霞むほどの眼光が、牙が砕けるほどの武器になりかねないほど明るかった。

「人間に加担して得することなど、我々には一つも無い。いい加減理解しろ」

そんなのそがんと――理解しなくても良いせんちゃよか!」

 三体を囲むコンクリート地面が割れ、二十の小山が突き出た。

 すべての小山から伸びながら太くなる幹は、童話の「ジャックと豆の樹」を再現していた。

 幹は毒蛇の一つ・ブラック・マンバの転身として二体の視界を覆った。躊躇いもなく四肢に絡みつき、二体は目を噛み潰される寸前で転身を振り切った。

 転身より半分細い幹が四肢から生え、アパートの屋根を飛び越え去るまでには無毒蛇の抜け殻と化していた。

 残り一体の逆立ちは治まらない。妊婦は暴れる胎児を左手で摩りながら一体の斜め前まで両足を引きずった。

「ありがとう、もう大丈夫やけん」

 逆立った頭部と角に右手が当たり、一体の威嚇が蚊の鳴き声に変わった。

「目を、良く見せて?」

 嗅ぎ慣れた匂いが漆黒の鼻腔を拡げた。

「ああ、やっぱり――」

 妊婦と焦点が合う瞬間だった。

「エメラルドよりも深みのある色の裸眼、優しい子が起こったときの話し方、奏真館の制服――私の」

 鈍色の体毛がすべて内部に吸収され、人参色の角は黒髪として人差し指一本分だけ伸びた。

 背筋は矯正しながら硬くなり、爪がペール・オレンジの液化し同色の指に染み込んだ。

「こがん泣いて、怖かったやろう? 私の瑚子ちゃん」

 心に閉じ込めた顔が、涙をぬぐう触れたハンカチを透明にした。

「ママ、会いだが――」

 友里子の肩に手を伸ばすと、瑚子の背中だけ冬になった。

 この暴力はかき氷や長崎市の中途半端な低温ではなかった。

 聖マリアンヌ中等部での林間学校を上回る。一月、長崎県平戸沖で体験した一本釣りの波風でも、ここまで体が冷えなかった。

「瑚子ちゃん? どうしたのどがんしたと?」

「ママ、ごめん。荷物持ってあげられないあげられん。今はお腹の子だけば考えて守って」

 友里子から目を背け立ち上がった。

「でも」

よ! こんなこがんバケモノのことなんか忘れて、逃げて!」

どうしてなして瑚子ちゃんが自分のことば蔑むと? 私だって、こがん夜道に瑚子ちゃんを一人にできないよできんよ

「――ちゃんと話すからけん、近いうちに必ず。元気な子が生まれた後にでも」

「私との約束。絶対、自分を追い詰めんでね」

 五秒間、二人の手が重なった。

 友里子は荷物を拾い、足音を立てず闇に消えた。瑚子は握り返さなかった左手で空気を潰した。

 瑚子が生んだブラック・マンバの転身は冷気で公園の砂場になっていた。

 新月の夜空は白金の光が一つだけ誇張していた。

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