第27話―太陽に陰る蛍
「ハナサキ族――先に行かせん!」
白金の翼は電線を門をすり抜け、瑚子が放り投げたカバンにも触れない高さでコンクリートを滑走した。
氷の砂と化した瑚子が生んだブラック・マンバの転身がハナサキ族の両翼とくちばしに付着し、街灯で射光していた。
瑚子と距離を詰めるほど裸眼が耐えられなくなり、最も痛みを感じる冷気を両手で探り当てた。
瑚子が追撃寸前のハナサキ族頭部に飛び乗り、白金の腹部がコンクリートに擦れた。
「そのまな板胸で頭に乗るな。硬い上に重すぎるんだよ、このデブス」
ハナサキ族が歯車になり、瑚子が振り落とされた。
「痛かたい。あんたらって皆あいつみたいに口が悪かとね。セクハラ発言とか最悪」
「電線に足ば引っ掛けんなよ。純血のトビヒ族でも神経のやられるぞ」
ハナサキ族は脚で瑚子の両肩と臀部を掴み、一振りの翼で電柱の二倍先まで登った。
どの階数でも窓はカーテンを閉めていた。住人の九割以上は生粋の人間であるとしても、合計四体の奇形を目撃した者は一人未満のはずだ。
バケモノの瑚子でさえ瞼を閉じた光に耐えられる確証がない。
朝になれば亀裂したコンクリートを通らざるを得なくても、残った氷の砂は夜の湿気で溶ける。
この件に関しては人間とバケモノ二族とが対峙する理由が消える。
瑚子は安堵し横目で地上を見下ろした。
上昇するにつれ長崎市稲佐山の夜景が視野に広がり、深紅の羽根先が紙芝居
「邪魔かー。
高度が上がるにつれ、瑚子の独り言が減り声も小さくなった。
登山は杜の墓地に赴いた一度きりで、街中で肺に染み込んだ空気とは澄んでいるか否かの違いだけだった。
日本一有名な富士山でさえ、瑚子の思考を奪わない。そうでなければ人間の登山家が脳への酸素不足で命を落とさないはずだ。
「間違っても転身するなよ。空の穴に着けば少しは楽になるけん」
瑚子の両腕は地肌と鈍色のマーブル色になっていたが、ハナサキ族の一言で鈍色の素がペール・オレンジに呑まれた。
ベスト・セラーの台所用洗剤が油汚れを輪状に分解する速度の変化で、瑚子が無意識に転身しかけていたことに気付いた。
その瞬間白濁の霧が歪み、ハナサキ族と瑚子を囲った。洗濯機に回され繊維が傷む衣類に同情するのは初めてだった。
稲佐山の夜景は洗剤に分解され、排水溝に流れてしまった。瑚子の思考が鈍くなる間に、夜景が砂粒よりも細かくなっていたからだ。
人間界の洗濯が終わると、瑚子の全身に強い重力が生じた。
掴まれている両肩と臀部はハナサキ族の向かう方角へ、その他の部位は百八十度から体内へ攻められた。ヘルメット無しで三菱重工の作業現場に放り込まれる絶望など、社会科見学では体験しなかった。
頭を潰されたら終わりだ、と目を瞑ると太陽と満月が裸眼に埋め込まれた。
瞼の裏が闇夜以外映さないことは、人間と共通しているはずだった。
しかし瑚子が積み重ね得た常識を覆し、太陽と月は同じ高さで並んでいた。
仮に現在瑚子を取り巻く空間がオゾン層だとしても、皆既日食でもない限り太陽と月が同時に観られることはあり得ない。
理数科目が苦手な瑚子でさえ、中学までの知識でそれぐらいの定理は理解できる。
普段は気に留めることのない学識を思い出したことに安堵した。
瑚子が太陽と月に囚われている間に、呼吸と全身にかかる重力が人間の生活圏とほぼ同じになったからだった。
「――限界。着地は自分でやれ。重すぎて俺の足がちぎれそうやけん」
瑚子は無着色の綿菓子に白綿棒を挿した木
「ぶへっ」
右肩を安価のマットレス程度の硬度が受け止め、瑚子は全身を転がして綿菓子部分に横たわった。
「ハナサキ族は、絶対男尊女卑主義ね。雪平利矢みたいなのばかりとか、ハナサキ族の女性が
「お前を女扱いしたら、それこそ女卑思考だ。俺だけでなく、誇り高きハナサキ族は皆同じやけん」
同じ綿菓子に着地した足が、ハナサキ族から人間のものに変化した。つま先から腹部、筋肉を緊縛した両腕と白金の光が薄らいだ。
「うわ、出た雪平利矢。
「あがん色気の無か
瑚子は両腕と左足をコンパスの軸と針に変え、利矢を目掛けて右足で半弧を彫った。
「無駄だ。トビヒ族の脚力と我がハナサキ族の腕力は相殺される」
利矢が言う通り瑚子の右足に痛みはなく、大根を鷲掴みする骨ばった手は利矢の顔に近づけてくれない。
「つーか、せめて制服姿でこれは止めろ。お前のスカートの中身を見たところで俺の脳神経が死滅するだけだ。これこそ視覚による男卑、最悪やな」
瑚子は右踵を綿菓子に向けて落とし、着地の寸前で上半身を起き上がらせた。
伸ばしかけの髪はすでに絡まり膨張していたが、利矢を前にして瑚子が気に留める理由がなかった。
「その最悪なコトばしたとはどこの誰や? どうせママば見とったとやろ。あんたに弟がおるなら、妊婦を冷やしたら
「
瑚子は顎先を握られ、えんじ色の裸眼と焦点が重なった。色彩の細部はドラマの火事シーンより熱く揺れていたが、瑚子の意思を読み取る剣は氷山よりも固く冷たかった。
「――――――」
日付が変わり新聞配達が始まる前を見計らい、瑚子は空の穴から自宅前の大通りに落とされた。
寝間着姿の正晃が両腕を伸ばしていたので、瑚子は両踵を落とし続けることで重力を緩和した。
瑚子の上半身は正晃の腕ではなく、自身の脚力がコンクリート上で受け止めた。
「同胞から連絡のあった。何度も携帯に着信を入れたが、お前が出らんはずたい。
瑚子は従うふりをして、玄関のタタキに留まった。正晃だけがサンダルを脱いでいることに気付くと、加齢臭の混じった汗で振り向いた。
「お父さん、罪の無か人間ば殺させて
正晃は二度もサンダルを履かなかった。目線が少しでも低くなれば、覚醒できなかった正晃が滝を落とす瑚子の気圧に潰されると判断した。
正晃は最後まで瑚子の父親でいたかった。
「瑚子、杜へ行け。奏真館の退学届けは私が済ませておく」
「うちは人殺しのコトば
「お前はもはや、人間の世界では生きられん。大学などとんでも無か。そがんとも気付かんとか」
「そんならうちに分かる
正晃は汗が滲んだ肩甲骨を見せた。瑚子が帰宅するまでエアコンの利いた部屋で眠っていれば、湿度の高い長崎市内でも寝間着が水分で重くならないはずだった。
「押し入れから扇風機ば持ってくるけん
利矢に送られるまで、瑚子はエアコンよりも質の良い冷風に当たっていた。
林間学校の思い出の一つ、キャンプの星空ウォッチングで瑚子も星の砂糖に包まれた心地良さは、高校三年生になっても変わらなかった。
「お父さん、実は体脂肪率の高かったりすると? こがん涼しかとに」
階段から降りた正晃は、扇風機を直置きでコンセントを挿した。
キッチンに続く場所で電気を使ったのは、瑚子が十二歳の誕生日を迎えた日以来だった。
それまで掃除機を使っていたが、瑚子が聖マリアンヌ女学園中等部への受験を機に、友里子がフローリング・ワイパーに切り替えた。
「麦茶、飲んどらんとか」
「そがんと要らん」
「やろうな。今どこまで人間の食い物を受け付けるのか怪しかけん。お前は遂に、次期族長に相応しか力ば付けて
奏真館で香水の使用を疑われたことを思い出した。自分では口臭でさえ気づかないことはテレビの宣伝で聴いたことがあるが、浦上駅のホームに集結する人工臭は誰もが気付かぬふりをしているだけだと思っていた。
実際は本当に感じないからであって、それが瑚子自身にも該当することが信じられなかった。
「トビヒ族が次期族長の最終候補に挙がる条件は、自らが発する植物の匂いだけでは無か。人型と本来の姿、どちらも苦痛なしに転身できること。私のようにまったく覚醒せんかった者はもちろん、中途半端に身に着いた力での転身は自殺行為に過ぎん。ばってか、お前が持つ力は同胞に歯向かった蔦が証明しとる。彼らも力が強く先代の最終候補やったが、二体ともお前が押し退けたとやろう? 一方でお前は感情のコントロールのまったく出来とらん。
「そんならうちがママのこと殺しかけたってこと? お父さんじゃなくて」
「お前が雪平のご子息
「もう良か! 人のせいにしてばっかりのダメ親父のところになんか
「瑚子!」
引き戸を叩き、瑚子は連なる一軒家の屋根に飛び乗った。利矢が罵った割には体が軽く足に筋力が引き寄せられているとは思えなかった。
瑚子の実家の周辺はほぼ十割が一階建てか二階建ての一軒家だった。平成と令和の間で新築が五軒ほど増えたが、洗練された外観は昭和の行列に呑まれていた。
住宅街の綱渡りであればなおのこと、素足でのトレーニングにもならない。
とはいえいつまでも一人跳競走をするわけにはいかない。正確な杜の位置を見つける前に夜が明ける。
長崎市内に山の字らしい隠れ場が見当たらない。
「うち、どがんしたら――」
しかし瑚子の行く先は予想できなかった。正晃の暗示が一つの選択肢であることは理解しても、自身の感情に従い納得した答えではなかった。
「ほんと、陸上以外何もできん。情けなか」
滲み出た涙は裸眼に貼り付いた。夏の台風にしては時期が早いが、大事な人間を傷つけない世界ならばどこに連れていかれても良いと身を任せた。
「お前のごと手を焼くトビヒ族なんて、前代未聞だ。幼児体型で
「その声、まだ起きとったと? 雪平利矢」
本来の姿に転身しても、利矢の声はまったく濁っていなかった。音楽科の生徒としてはハンドベルの腕前しか知らなかったので、
「お前が俺に見張らせたとやろうが。この単純脳みそが」
「
「勘違いもいい加減にしろ。お前を囲ったばかりに、誇り高きハナサキ族の住処を荒らされるなんて
「そんならどこに行くと? つーか、あがんこと言うた後で、よくうちを
「
利矢の足の指が広がり、瑚子は長崎市内で見たこともない密林に落とされた。
連なる木の頂に全身を吸われることにも気付かず、瑚子は白金の腹部を睨んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます