第28話 2020年7月31日―世界が塗り替えられた朝

 瑚子は指折り数えを覚える前から、公園やアスレチック施設で遊ぶのが好きだった。

 中でも草ぞりに執心し、両手を振りながらベンチに腰を掛ける両親に向かって繰り返し降下した。

 正晃の素肌ほどに禿げた芝生を背に、両親と手を繋いで帰宅した。

 柱時計よりもカラスが正確に空腹の時間を教えてくれた。


 そのカラスは両親を覆い、瑚子の視界を奪った。

 漆黒の正体を見破るより先に、初潮前の体が現実の年齢に戻った。

 急激な体重体積に耐えらえなくなり、そのまま倒れた。


 知らない声が四種、漆黒の中でこだました。いずれも変声期を終えた地震だった。

 一種は最も振動が弱いが、フェンシング捌きに近く面積に無駄のない一突きだった。

「起きろ、その汚いよそあしかモンば隠せ」

「夢ぇ?」

 声主の輪郭に光が当たり、全身の部位が見えない。知っているはずの声が睡眠を勧める。一夜で人間の生活とかけ離れした出来事が続き、瑚子の理性は二十丁もの警告銃に突き付けられている。

「起きろ! 変質者」

 一丁から発砲した一がん冷気と化し、普段は第三者に見せない箇所に伝った。瑚子の精神と頭蓋骨内部ではなく。

「寒か!」

 現実に戻った瑚子は両手を頭部へ伸ばし、公園の芝生より長い草の群れを押し潰していた。

「村雨、お前露出狂に転職したところで誰も喜んで金ば払わんぞ。むしろ眼科、精神科、脳外科それぞれの診察代と慰謝料ば請求されるだけ。そして俺はそのすべてを請求したいしたか。今すぐにでも」

「露出狂? 請求? あんたがうちに、セクハラに対する慰謝料ば払うのと間違えとるっちゃない? あんたが行った方が良かやろうもん。特に精神科」

 濃緑に変色した大気が利矢の髪、肌を明るくしている。色素の薄さではなく、利矢自身が光を放っている。

 人差し指の爪も、桜色のベースを微粒子ラメ入りのホワイトよりも光の密が高いベールに包まれている。

 サロンのジェル・ネイル技術では、利矢の爪に届かない光の筋の細さだった。ジェル・ネイルより荒い製造の安価エナメル・ネイルではなおのこと、観光のフォト・スポットを再現するのは不可能だ。

 その指で、利矢は口を閉ざし瑚子を指さしている。

「何? 変なモンでも付いとると?」

 瑚子が両手で制服のボタンを撫で回すと、利矢の指は数字の一を空中で掘った。漢数字ではない。

「もっと下? 下がどがんしたと――」

 舞踏会の固定したマスクから一変、利矢は顔のパーツすべてを歪めた。

 えんじ色の線が入った両裸眼は遭遇した幼児の誘拐犯を下衆と認定し、鼻腔はドリアン百個分のエキスを染み込ませた鼻栓を突っ込まれた不運を嘆いていた。

 唇はコーヒー・フレッシュのCMで使われているのが白いボンドであると知らされた絶望を体現していた。

 瑚子が利矢にとっていずれの感情に匹敵する正体に気付くと、利矢は後方を向かず一跳びで距離をとった。

「やっと理解したか。デブスの露出狂め」

「最っ低! これじゃゴ―カンザイたい、警察に突き出してやる!」

 瑚子のスカートは左太ももが露になるほど裂け、落下した勢いでめくれスイカ柄の下着が丸見えだった。

 瑚子はてこの原理で起き上がっても、眩暈せず利矢を指さした。

「俺は女を見る目のあるけん。お前レベルの規格外なんか目の前にってもにならんし」

「あんた、見る目の無かの言い間違いやろ、絶対。うちのこと天使だって称賛してくれた人のるっちゃけん。まーちゃ――」

 朝露が気化する程度の、ぬるま風より半端な温風が二人の頭上で渦巻いた。

 瑚子に潰されていたはずの草の群れが小刻みに揺れる。近づく足の速さを伝えるためだ。

「その名を慎め。せめて今だけは」

「なして?」

 利矢が答える前に、頭上の渦風が五分割し二人を囲った。

「ここは神聖なる杜。何故ハナサキ族が我らが領地に踏み込んでおる?」

 渦風が収まっての第一声は青みがかった後ろ髪と前髪を鳩尾みぞおちまでの長さに揃えた人型の男性。

 ヘア・ゴムもピンも使っていないが、顔に纏わりつかず振り払う素振りを見せない。

 人間の世界での瑚子の生活圏では、同世代の男女はわざと髪型に手間をかけ通行人にぶつかる可能性を考えない。両手は髪いじりとスマホで忙しい。

 そんな若者より、この綿生地のTシャツとステテコを着た男性を眺める方が眼福になる。

「互いの世界を行き来して良いのは、族長以外では異常事態を回避するときだけでしょう?」

 藍色の甚平を着た女性は、肩までの黒髪をハーフ・アップしている。結び目の位置が高いので、麻ひもの蝶結びがハムスターの耳になっている。

「僕は雪平利矢、同胞の中で時期族長に最も相応しい男にございます。このトビヒ族の小娘を見届けに来ました」

「見届けるだと? 君も最終候補の一体であれば承知しているだろう。ハナサキ族と我らトビヒ族に共通する、族長となれる要素を。双方のいずれの代でも、女の族長はいない。そもそも神の長は女に務まらぬ」

 男性の長髪を纏う圧が歪んだ。毛先が振り子のように雰囲気を変えた。

秋成あきなりの補足をすると、少数でも最終候補に挙がる女性はいましたよ。この春菜はるなもその一人でしたが、族長の器でないことは重々承知していました。早々に身を引くのが賢い生き方というものです」

 ハーフ・アップの春菜、長髪の秋成は気温差の盾を備えているが、二十も年下の利矢と瑚子を見下してはいない。年輩として事実の教示に過ぎない。

「せっかくのお言葉ですが」

 利矢の裸眼の熱が上がると、利矢の背後と瑚子の正面に立つトビヒ族二体は歯列の隙間から唸り声をあげた。双方とも本来の姿で、人の言葉を発さない。

「せっかくの機会だ。彼らにも聞こえるように発言してもらおう。本来の姿で生まれた故、言語の類を問わず各地の同胞に情報が行き渡る。この愚かな娘のこともから聞いているぞ」

 瑚子と向き合う一体は前足で草の臭素を放っている。爪で裂き潰しているとしても、威嚇だけでは密室内の薄い酸素を塗り替えられないはずだった。

「村雨の、まさか知らないとは言いませんよね? 貴女の父方では最終候補に挙がった同胞は一体もいないことを。母方の御祖母様、久江さんは大変優秀でしたよ。最終候補に挙がらないことが珍しいくらい、彼女の系統は才に恵まれていますが、久江さんはおごることなく身の程をわきまえた言動にも長けていました。そのご息女、幹子さんは残念ながら力に恵まれませんでしたが、人間の市井しせいに溶け込み生を全うしました。その娘たる貴女は最終候補として覚醒してもなお、あの愚かな人間の継母を庇った。一夜明けたら対峙した相手のことを忘れたなんて言わせませんよ」

 春菜が弁明しても一体は興奮が収まっていない。

 瑚子が身重の友里子を庇い撥ね退けた同胞と再会したことになるが、瑚子には実感がない。本来の姿で個を見分ける術など持ち合わせていないからだ。

「人間に加担するトビヒ族が族長など愚かの極。世も末だ」

 秋成に煽られ、瑚子を囲う草に弾力としなやかさが戻る。回復力は臭素を放つ一体の足元にも及びエキスが凝固した。

 瑚子の肺は酸素の循環を拒んでいた。いずれ瑚子が還る場所であっても、トビヒ族の言動で穢れた世界では呼吸すらできない。

 歩き煙草とネイルの除光液、自動車の排気ガス、二百ミリ・リットルの高級ブランド香水一瓶分をかき混ぜたものを空気とは呼べない。

 それは人間もハナサキ族も同じと思い、視界の脇で利矢を捕らえた。

 立ったまま背筋を曲げる瑚子に対し、利矢はハンドベルの演奏中と変わらないまっすぐな幹だった。

 その幹から生えた冷たい左手が、瑚子の左肩に乗った。

「村雨、俺が言ったことを思い出せ」

 利矢は肩を引き寄せ、声を瑚子の耳元に留めた。瑚子と対極、利矢の正面に佇む三体目と距離を詰めた。

「貴方の配下は随分と大きな勘違いをされている。僕が申し上げる見届けとは、村雨瑚子が愚かな娘だと証明していただくことにございます。グリーン・ムーンストーン」

 鈍色の体毛が配下の二体の倍まで伸びた三体目は、傅く利矢を余所眼に瑚子が振り向くまで視線の釣り糸を絡めていた。

「お前の父方は五代に渡り人間の世界で命を繋いできた。その六代目が知らぬも当然故、特別に教えてやる――グリーン・ムーンストーンとは、我がトビヒ族の族長が継承する名だ」

「その由来は初代族長の御名みな。ですが村雨の、貴女は覚える必要がありません。間もなくグリーン・ムーンストーンが貴女の処罰を許可してくださいます。人間に加担し、同血族にまで歯向かったのですから」

 秋成と春菜は利矢の発言を、表面を剥かず耳に入れた。

 二人の中で、瑚子は既に杜から追放された身となっていた。

 呼吸が弦、発声が杜のどの植物よりも細く固い弓となり瑚子の背中をめがけて放ったが、その圧は二人に跳ね返った。

「—―ふざけるのもふざくんのも大概にしろせろ

 百を超えて絡まった視線の糸も細かく千切れ、売り物にならない乾き素麺としてすら空間に残らなかった。

「女だからなん? ってか族長とか処刑とか勝手に決めて馬鹿にし過ぎやろ。そもそもうちの親友やママをおそうたお前らわがどもなんか身内でも何でもねーよなかざい横着なおおちゃっか敵ば守って率いる理由なんて、一つもいっちょん無かやろうが」

 瑚子の体に浸透していないはずの言葉が、マグマより熱く雲仙温泉にある硫黄の煙より滑らかに、確実に六つの影へ這った。

 生前、真奈美は一度だけ瑚子以外の人間に怒った。親戚が住む長崎県松浦市と真奈美が中学まで生まれ育ったきた同県北松浦郡佐々町の方言が混じり、長崎市の日常会話しか知らなかった瑚子を驚かせた。

 それ以来真奈美は瑚子の前で怒りをぶつけることもなく、可能な限り瑚子の口調に合わせた。

 実際にこの口調を使うと、脳に送るためだけに絶えず血液が生産される昂ぶりに納得した。

 人間であっても怒りや悲しみを抑えられなくなる。秩序を名目に好き勝手横暴するトビヒ族が人の理性を持ち合わせているはずがない。

「そいでもまだごちゃごちゃ言うのであればぬかすんやったら、うちが人の王になってわがどもば杜に閉じ込める。あんたらの住処ばトビヒ族専用の牢屋にしてやる!」

 グリーン・ムーンストーンの体毛が引き抜かれる寸前まで速く勢いよく逆立ち、日光の反射で鈍色から月色に変色した。

 瑚子の瞼は開いたまま、感情が目途なく枝分かれし広がった。鈍色の体毛の生え変わりを繰り返し、立ち位置の奥深くで体毛の綿毛の衝突を足裏から頭頂に駆け巡った。

 秋成と春菜、二体の本来の姿は足腰が草に粘着し両手で視界を覆うことすらままならない。

 グリーン・ムーンストーンは四足を軸に保っているが、唸り声が胃に流れ込み角の重みに耐えるので精いっぱいだ。

 利矢の意思なく全身に羽毛が生え、木の高さまで離れた。冷気を放てないほど、形状が安定しない瑚子の圧に押されていた。

「うちがお前たちわがどもを――罰する!」

 もえぎ色が瞳孔を覆うと、トビヒ族は重力を失った。

 木の幹や枝で受け身をとりながら、限られた空間内でスーパー・ボールのように弄ばれる。

「村雨! 何だこいは」

「ここはもう、お前らわがどもの牢屋だ。バケモンの檻にも善良な人間を近づけんぞ。死ぬまで族長とトビヒ族ごっこばして遊んどけ」

 一本一本の草はモンステラの葉一枚分より面積があり、カット前の五三焼きカステラより厚い。

 グリーン・ムーンストーンのみ体の軸を失い、幹の太さに合わせて背中の反り具合が変わった。

「村雨、もう良か! 今からお前がグリーン・ムーンストーンだ」

「雪平――」

 喉ぼとけが潰される覚悟で叫ぶと、異形の草が五体を杜の影に放り投げた。

「お前が王になれ。そして母親を忘れろ、やろう?」

「俺が潜めた声、ちゃんと聞こえていたじゃないか」

「昨日あんたが言うた意味、ちゃんと自力で考えた。そいを馬鹿げた冗談で否定される筋合いなんて無か。何ば思うたらグリーンとか口に出せるとか」

 瑚子は人型の姿を保ち、利矢を見上げた。

「冗談なものか。先代のグリーン・ムーンストーンは事切れた。お前が杜の地面を塗り替えた。おそらく世界中の杜一点残らず。もはや人間の上には立てられない。仮に人間として暮らしても、大方の食べ物ば受け付けられん体ではやり過ごせない」

「そいば分かって、昨日あがんコトば言うたと? ハナサキ族あんたにとってはトビヒ族の族長なんてだいでも良かやろうもん。トビヒ族の好かんうちば族長に仕立て上げても、あんたには何もメリットの無かとに。うちにとっても、ママば守るためのメリットなんてどがん考えてもあるはず無かたい」

「勘違いするな、俺は提案しただけだ。その答えをお前自身で発言し体現までした。このこん不気味な草が証明しとる。脚力のあるトビヒ族でさえ、あんなあがん遠くまで跳ね返された。人間であればオリンピック選手でさえ立つこともままならんぞ。互いの世界に介入さえしなければ、人間がトビヒ族に殺されるきっかけが激減する。グリーン・ムーンストーンの名が嫌やったら番人を名乗れば良—―」

 利矢の羽毛が張り、一本一本に冷気が戻った。

 削りたてのかき氷程度の温さ以外には何も変化がない。それでも瑚子は空の騒音に気付いた。

かか村雨、母親の無事を確認しに出るなよ。今お前が人前に出たらマズか――かなり」

「カッコつけんで教えても良かたい。外では何が起こっとると?」

ハナサキ族こっちの事情だ。お前に手間をかけさせるほどでも無か」

 利矢が両翼をひと振りすると、冷気は瑚子の肌に触れる前に溶けた。

 瑚子はこの朝、今まで以上に人間とかけ離れた存在になってしまった。そうなるよう仕組んだ利矢を、表面上でさえ信用したくない。

 瑚子は風の匂いを頼りに草を踏み渡り始めた。


 新しいグリーン・ムーンストーンに頭を垂れる異形の草。


 後に神跳草かみばねぐさと呼ばれる。




 同日午後二時、諫早市内にて


『今月、長崎県在住の女子中学生が四つ足の獣の胎児を遺棄してちょうど一年が経ちました。この一年では県内各地で怪奇現象が度々起きています。鹿でもなく狼でもない異形の獣が街を徘徊しているもの確認済みです。それとは別で先日、彼女の収容先にて、脱色した鳥のようなものを一つ駆除しました。残骸を解剖したところ、眼球に赤のような色彩が一本ずつ入っていました。加えて色は異なりますが、昨年四つ足の獣を出産した少女にも緑に近い色彩が左右の目に一本ずつ入っています。政府の意向としてはこの情報を長崎県内で独占せず、人に害を及ぼす可能性のあるこの危険な生き物を全国規模で駆除に取り掛かることになりました。例の少女から予想するに、必ずしも獣の姿をしているとは考えられない模様です。万が一人間の姿をした物を目撃したら直ちにその場から離れ、この後各地に配置される駆除隊にご連絡いただきますようお願い申し上げます。なお駆除隊への連絡先は――』


 アナウンサーの須子見すじみは視聴者を守る正義感を装っていた。昨年長崎市を取材したので、特定の地域では彼の仮面をそのまま受け入れる住民が多い。

 その算段でカメラに向かっていることを見破っている視聴者がいることに、須子見本人は気付いていない。


「逃げて、早く」


 一つの命を抱えた腹では、最愛の者を導くことすら叶わない。

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