第9話ー異色の臭い

「ねぇCoco様、今日もお話お休みするの?」

「ぅむ……」

 Pansyが体毛を梳いていると、Cocoは両瞼を閉じたまま喉を鳴らした。Pansyのスケッチ・ブックすら見ようとしなくなって四日目の朝だった。

 最初の朝は「老いぼれの相手ばかりしていたら、Oliveみたいに子供らしくなくなるぞ」と、Coco は顎をPansyの膝に乗せて答えたが、それ以来弁が立つことがない。

「ご飯ちっとも食べてないもん。昨日私が小石ですり潰した木の実だって、一回も舐めていないでしょ」

「んぅ」

 Pansyの窘めが始まる前に、Cocoは寝息を立てた。トビヒ族本来の姿の子どもが一体残らず母親の散歩についていっても目覚める気配がないので、Pansyは両手を顎の器にして静かに草の上に移した。

 PansyはCocoと自身、二人分の食事を用意しながらOliveの戻りを待つことにした。

 Pansyの実母であるSakuraと別れた後も、OliveはPansyとの別行動が減らなかった。

 忙しい理由を尋ねても一切教えてもらえず、頼るべき大人を失ったことで一言慰めることもなかった。

 それに加えてCocoと過ごす時間を減らすよう注意されていれば、Pansyは間違いなくOliveを嫌っていた。

 初めて出会った日以来、Oliveの印象は賢いかもしれないが思考は堅苦しく、気持ちの伝達に関しては頭脳を活かせないほど不器用。Oliveの精神一部が老けたおじさんもどきのお子様から進展していない。

 人間界でのPansyは恋愛に関して人並みに聡かったが、杜では誰かを好きになる以前にとして認められず女衆の社会に溶け込めなかった。

 Sakuraが去った後はなおのこと、Pansyは家で一人、慣れない家事で絵を描く時間が減る日々を過ごしていた。

 木の実や果物ばかりの食事では腹を十分に満たせず、Cocoが佇む川の水を沸かすにも思うように力が入らなかった。

「調味料のないスープなんて飽きちゃったよぉ」

 鍋の水が沸くまでの間、PansyはCocoの横で胡坐をかいて待つことにした。背中を反り見上げても、木々の先端で覆われた空は変わり映えせず、わずか一分で胡坐に飽きてしまった。

「Pansy?」

 草花が揺れると、ガーディアンの一人であるIrisが木陰に隠れていた。早熟な慈愛に満ちた笑顔の名残がなく、長い三つ編みが軋んでいた。

「アタシ、Irisよ。あなたを出迎えてからずっと会っていなかったから、アタシのこと忘れちゃったかな?」

「覚えて、ます。けど……」

 Pansyは立ち上がって答えたが、Yes・Noの明確な語圏出身らしくない気弱な声しか出なかった。

 Pansyの記憶では、Irisは年上への尊重と年下への慈しみ、ガーディアンであることへの自尊心が絶妙なバランスで調和された、誰よりも精神的に成熟した女性というイメージだった。

 今回顔を合わせたのは二度目だが、初対面から三桁の日付が経過しているためどの長所も欠けた、ただの気弱な姿を前にPansy自身の記憶力に自身がなくなっていた。

「あの日アジア大陸の杜に向かって、さっき戻ってきたばかりなの。何しろ面積が広くて長旅になってしまったわ」

「そうなんですね、でも今Co……じゃなくてグリーン・ムーンストーン様がお休みなので、お話は明日にでも。それに今火を扱っているので」

 Pansyは横目で鍋を指したが、Irisは辞さなかった。

「それなら手伝うわ。向こうアジアで香りの控えめなスパイスが手に入ったの。でも先に言わせてね。アタシにはPansyが望めばいつでも助けられる保証がないの。アタシが危険を伴うガーディアンだからという理由だけではないこと、本当は声に出したくないんだけど伝わるかな?」

 Pansyは頷いた。同時にIrisも市井に戻ればただの女衆の一体に過ぎないことを思い知った。

「気にしないでください。あなたに迷惑をかけたくはないので。でも私はまだ十三歳になったばかりだから、大人になるまで一人で生きていけるように、何のお仕事ができるのか分かりません。贅沢な話ですけど、ガーディアンの他にどんなお仕事があるのか教えてもらえたら助かります」

 早いうちに生きる術を身に着けられたらそれに越したことではないが、Pansyの本音は別にあった。

 Irisに堂々と助けられる権利がないのであれば、中途半端に近づかないでほしい。そのためにIrisが知らないであろうガーディアン以外の仕事を望むふりをしていた。

 Oliveを覗いて、IrisはPansyと最も年齢が近い。族長のCocoはもちろん、Irisの同僚であるMarronと比べて圧倒的にトビヒ族生経験が浅い。若くしてアジア大陸まで出張したとしても、それは同胞の住む杜という範囲内に過ぎない。

「恥ずかしい話だけど、アタシが家や女衆のもとに戻ったところで大して役に立たないのよ。ガーディアンとしてもまだまだ半人前だし。だからもしもPansyが別の大陸の杜に移ったところでアタシが後ろ盾になることも陰から守ることもできない。でもね、ガーディアンとして任された以上、任務はしっかり果たしている自負があるわ。そのうちの一つがの近くで外の世界を監視することなんだけどね、すべての大陸の、外の世界が危険であったり野蛮な住人ばかりではないってことを確信してから杜に戻るの。単独での任務では特にね。実際の生活文化や社会に関してはし、SakuraやPachira、Dahliaが長年住んでいたのがちょっぴり羨ましいわ……ねぇ、Pansy」

 スパイスに触れていた右手がPansyの左頬に重なり滑った。Irisの言う通り鍋の中では香りが控えめだが、凝縮したエキスが付着した手指はPansyの鼻腔を貫いた。

「あなた、とは思わないの?」

 側で横たわっているCocoにも聞こえないよう、Irisは限界まで声を抑えた。

「そ、れは」


 風の向きが変わり、湯気がPansyとIrisから離れた。

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