第2話―もえぎ色の波長

 人間のAoiに良く似たPansyは、食材の類に徹底して嫌われていた。失敗の代表作ゼリーの生まれ変わりだと思うほど、杜の入り口は母子を開放する瞬間までも親切ではなかった。

「べへっ! 口の中が膀胱炎になったかも。マミー、気持ち悪くない?」

 服や顔には粘着物が付着していないが、気化した成分が腔の類を問わず侵入したのではないかと不安になった。

「すっかり忘れていたわ。グランパたちが入り口際に山小屋を建てたのも、マミーが頻繁に具合の悪くなったからだったのよ」

 Sakuraはコットン・パンツの後ろポケットからガーゼ・ハンカチを二枚取り出し、二人の口を拭った。

「マミー、やっぱりパパには、意地悪な入り口なんて教えなくて良かったのかも」

「Pansyの言う通りかもね」

 Pansyは頷けなかった。両足が重力に逆らい、Pansyの意思なくつま先と踵が弧を描いた。

「Pansyは初めてだもんね。杜の草はコシがあって元気でしょう?」

「小人になるってこんな感じなんだ。マシュマロを背渡りしているみたい!」

 Pansyはゴム製ロー・ヒールのスニーカーで幅跳びを続けた。

「Pansy! バック・パックの中身がホット・ケーキのペーストになるわよ!」

 双方と持ち物すべては杜に入る前と変わらず、バック・パックはPansyの背に張り付いたままだった。

 Sakuraの足は約三十年前とほとんど変わらない足踏みを覚えていた。それでも成人で、なおかつ標準体型の人間の女性と同じ体重では、杜の草はさすがに跳ねない。

 核が分裂した地球で奇跡が生まれ、Aoiが陸上のオリンピックで金メダルを獲得したとしても、つま先が触れた瞬間尾てい骨が複雑骨折するのが落ちだ。

 九十年前、今代のグリーン・ムーンストーンと同時にこの草が誕生した。以来、足腰の筋肉が発達した同胞のみに出入りを制限している。

 当時、かつて日本と呼ばれていたアジアの一部にて、人間が杜に混乱をもたらした。収束までの経緯も含め、全エリアの杜のもと、トビヒ族は年長の同胞から徹底して教え込まれている。

 Pansyの教科書には、トビヒ族に関して一切記されていない。人間の歴史上では、島中の一億人が意味をはき違えた上に、誰もが神と自称し現地の杜を破壊したことになっている。

 当時Pansyはもちろん、Sakuraも生まれていない。それ以前に母子は一度もアジア大陸に踏み入ったことがなく、人造歴史の真偽を知る由もない。

 人間の教育を十分に受けていないSakuraは、両親から受け継いだ物語を信じるほかない。

 一方でPansyはAoiと同じ人間の初等教育を受け、これから杜の同胞よりトビヒ族側の事実を刷り込まれることになる。幼く心が清い娘は、両族間での溝に戸惑うかもしれない。

 Sakuraは、人間の血も流れるPansyが同胞に受け入れられるよう、できることをしたいと思っていた。

「ぶっ!」

 Pansyの背丈がSakuraの左手とぴったり重なるほど、距離が離れていた。

 Pansyが杜の深みに入りかけた瞬間、黄色のバック・パックが拡大した。

「Pansy!」

 Sakuraは胸元でバック・パックを受け入れ、幅の狭い両肩を掴んだ。その瞬間、水分量の多いものが歪む音が聞こえたが、気にかける余裕がなかった。

「怪我はない? どうしたの?」

「どこも痛くないよ、マミー。ただ、何かにぶつかったみたい。びっくりして、草がこんなだから、ポーンって跳んじゃった」

 Sakuraが幼い目を自軸に合わせようとすると、縦の沼もどきから草が揺れる音が聞こえた。

 実際は沼ではなく杜の奥行だが、Sakuraの溶けかけたジェラートの記憶では、同農の住処は現在地より沼底並みに離れている。

「いたぞ、さっきの子どもだ!」

 人影が分裂し、PansyとSakuraは瞬きするまでに囲まれた。

 プレーン・ヨーグルトにラズベリー・ジャムを溶かした頬の男性が一人、全身の肌がコットン・スノーかきごおりに無添加のシロップをかけた色の女性が二人、細目でPansyとSakuraを見る。

 コットン・スノーは半世紀前にアジア大陸の東端から広まり、現在の欧州大陸ではスイーツ文化の御三家の一つとして君臨している。毎年の夏、Pansyは両親と三人でアジアン・マーケットに出向き食べていた。秋になっても忘れられず、Sakuraの腕の中で、冷たい麻痺が喉からデコルテまで広がった。

「見たことのない顔ね。この髪の色、人間かしら?」

「でも人間の子どもだったら、腰の骨折だけでは済まないはずよ。あなたも、この神跳草かみばねぐさの弾力に良く耐えられるわね」

 女性は二人とも腕から腰まで細く、ナイフ形に研いだ石二、三本を革ひもで固定し、右太ももに備えていた。四本の太ももは女性の腕の半分ほどのロープ四、五本が螺旋した筋肉でできている。

 欧州の女性は太ももが固めのプリンで覆われている。Sakuraの太ももの筋肉はカラメル部分程度の厚さだが、その女子陸上選手レベルの筋肉は溶けない脂肪で覆われ始めていた。

「おいおい、お前ら。何遊んでんだよ。女子供でも相手は人間だぞ。さてどんなつらしてんのか……」

 男性は左手でSakuraの顎を掴んだ。右手には弓を持ち、矢を入れた木筒を肩にかけていた。

 腔肉が歯列に食い込む瞬間、SakuraはPansyの顔面を完全に腹部に隠した。

「ん、お前のは裸眼か」

「あなた、もしかしてMarronマロン? やだ、すっかりおじさんになっちゃって」

 Sakuraの腕力が屋外に出されたコットン・スノーのように緩やかになった。

「何、忘れちゃったの? 私よ、よく一緒に木登りしたSakuraよ」

「Sakuraって、あの元ガーディアンご夫妻の娘か?」

 Marronと呼ばれた男性の左手が離れても、Sakuraの裸眼から目を逸らさなかった。

 Marronと同じく、もえぎ色の虹彩が左右に一本ずつ刻まれた裸眼が緑湿の中で、粉雪を乗せた若葉のように薄く発光した。

「そうよ! PachiraパキラDahliaダリアの娘よ。と言っても、今の私はこの子の母親で、娘なんて年齢ではないけどね」

「へぇ! 杜に戻ってくるたびに、口から神跳草の肥料をばら撒いていたSakuraがなぁ。あれか、すっかりお前も年増になって、入り口酔いが治ったのか?」

 Sakuraは左手でPansyを抱えたまま、Marronの左手首を掴み時計回りに捻った。

「相変わらず女の扱いが、赤ん坊のお乳吸い以下ね。その矢でよく今まで串刺しにならなくて済んだこと」

「あいにく俺には病知らずの息子と妻がいる。しかも息子はこの杜一の賢い子だ。そういうお前も、とんだもの好きがいたもんだな」

 Marronの背後で女性二人が目を合わせ肩を上げている。Marronと同胞以外の人間と会話が弾んでいること、Sakuraがトビヒ族かもしれないという考えに線引きができていなかった。

「あのさMarron、この人は?」

 一人が声をかけた。Marronの背後に控えるだけでは推理のゴールにめどが立たない。痺れを切らしたのは、肩上で切り揃えたブロンド・ヘアの方だった。

「ああ、わりわりViolaビオラ。お前が生まれる前のことだから知らなくて当然だよな。こいつは」

「自己紹介ぐらいできるわ。誰かさんのおつむじゃあるまいし」

 SakuraはMarronの左腕を投げるように放った。Pansyを擁護する左腕も解かれた。

「私は父Pachiraと母Dahliaが娘、Sakura。両親がガーディアンだったので付き添っていたけど、私の入り口酔いが治らなくて。長いこと杜を離れていても、れっきとしたトビヒ族よ。そしてこの子は私の娘。Pansy、ご挨拶なさい」

 PansyはSakuraの腹部で顔面を擦り、背負っていたバックパックをSakuraに向けた。

「Pansyです。えっと……十二歳です」

 肩までを丸めるように礼をし、唾を飲み込む仕草を隠した。入口に入るまでにSakuraから、姓を含め父Aoiと欧州に関することは一切話してはいけないと強く言われていた。

 人間の世界で生まれ育ったため、Pansyにはその意味が分からなかった。

 神跳草を踏むまでは深い意図もなく、SakuraがAoiに杜の入り口を知らせなかった理由をSakuraに問いただしていた。

 SakuraとMarronの会話を聞いた後、真相まで理解しなくともSakuraの忠告が正しいことがPansyの腸まで伝わっていた。

「杜へようこそ、Pansy。俺はMarron、杜を巡回し入り口を守るガーディアンだ。君のお祖父さんとお祖母さんはそれはもう杜でも腕利きで有名だったんだぜ。君のお転婆ぶりはあれか! 二人の血を受け継いで、将来有望なガーディアン候補かもしれんな!」

 MarronはPansyの赤毛をかき回した。

「それにしても十二歳か。何だ、うちのOliveオリーヴと一緒じゃないか! せっかくだし息子と友達になったらどうだ? そんでもって、杜のことで分からないことがあれば何でも、息子に聞くと良い」

 赤いお下げの分け目が見えなくなるまでかき回された。折角の厚意を無下にできず、PansyはMarronの歓迎に頷くだけだった。

「あとこの二人もガーディアンで俺のチーム・メイトだ」

 Marronの手が離れると、背後に控えていた二人がMarronの肩に並んだ。

「私はViola、昨日でガーディアンを任されて三年目、十八歳よ。他の女性と違って手仕事が苦手でも、私もちゃんと杜の役に立っているわ」

 Pansyから見て左の女性、肩上までのブロンド・ヘアの方が一歩前に出た。明らかに針より一万倍硬く太いモノを扱いなれているタコが、Violaの両手をかたどっていた。

 Pansyは両親に愛されて育ったため、初めて戦闘要員を間近で見た。

 元の住処や学校で繰り返し見た3Dスキャンでは、要領悪く鍛え上げられた上半身のマスク・マンが人間界での戦闘要員として認識していた。

 市民に差し向ける銃もまた、要領の悪そうに部品を重ね腕の疲れるだけの玩具にしか見えなかった。

 一世紀前の型が紀元前まで遡る鈍器でも、発砲力を補うのに十分な殺傷能力があった。Aoiの身元確認時、棺に入れられ埋葬されるまでの間、Pansyは父の手に触れることすら叶わなかったのはAoiが命を落とす要因にあった。

 Sakuraも同様で、鈍器の重みで素骸骨が損傷されたと説明を受けただけだった。

 Violaはそのような鈍器を両手でも扱えなさそうな細い腕だった。

 それでも杜のテリトリー侵入を許さない硬い圧と、同胞を受け入れるコットン・キャンディー程度の受け皿を、Pansyの頬に触れる微風で感じた。

 人間界の文化さえ習得していれば、Violaが市井に溶け込んでも見分けがつかないほど自らのオーラを管理できていた。

「アタシはIrisアイリス。MarronとViolaには教わることがまだ沢山あるけど、ガーディアンとして一年間乗り越えてきたわ。Pansy、この中ではアタシが一番あなたと歳が近いわね。よろしく」

 Irisは右手の指先でMarronに広げられた髪に触れた。役目故に子供好きを隠していることが、初対面のPansyにさえ伝わった。Irisは初見でPansyの地毛に驚いた自身を忘れているようだった。

「Iris、ということはあなた十六歳? もう少し上のレディーかと思ったわ。顔立ちじゃなくて、何かこう慈愛で成熟した感じがするもの」

「ありがとう、Sakura」

 SakuraはPansyの頭頂に左手を貼った。神跳草を踏むまで大らかな面しか見えなかったが、この場で初めて桜の木枝がペンシル型に変化した声を聞いた。

 今後も毛根が成長し続けるはずだったが、Pansyの解けたお下げ髪は左手の小刻みな振動を吸収できなかった。

 Sakuraは非道徳な形で夫を失って日が浅い故に気が立っている。それ以外の意図はないとPansyは唾を飲んだ。要らぬ考えを悟られないよう、右耳下で一つに編んだIrisの髪に集中した。


 欧州人も杜の人も、大人の世界は複雑そう。


 そういえば「トビヒ族」って何だろう?


 今わかるのは、この人たちもマミーや私と同じ、くすんだグリーンっぽい線が入った両目だってことだけ。


 パパの目にはその線が一本も入っていなかった。


 どうしてかなぁ?


 Pansyの疑問は、内臓壁を押し広げながら胃酸に溶けた。

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