第4話 2019年8月初日ー湯気が消えるまでに

どうしてもどがんしても? お父さん」

 目を見て会話をするのは、スポーツ特待の内部入試の前日以来。ひげの剃り跡に潜む白髪や顔面の小皺を数えないと、瑚子は膝の上で拳を保つことすら難しい。

 血がつながっているとはいえ、相手は異性の親である。心底嫌っているわけではないが、有毒生物に遭遇したような生ぬるい鳥肌を感じる。

 ただし瑚子が置かれている状況は二年前とは異なる。体の内側は氷が解けた麦茶ほどの体温だが、汗が滑る皮膚は夏季のコンビニで購入したばかりのチョコレートに近い。身体ともに不快感が高まる。

「どがんしても、だ。手続きは先月に済ませとるけん、学校側は明日あたりには顧問の先生やコーチにも伝達するやろう。瑚子、来月の新学期からは諫早いさはや市の高校に通いなさい」

 父の正晃は瑚子と同じ瞳でまっすぐ捕らえる。思春期の娘が動揺するのは予想の範囲内だ。

「だからって、今月のインター・ハイば辞退せろとかあんまりやろ! しかももう陸上まですんなとか、特待ば許した意味の分からん」

「状況が変わった。あがんニュースが流れた以上、お前を守る術は限られとる」

 正晃はズボンのポケットから右手を出し、テーブルの上で指を開く。左手で瑚子が愛用しているキャラクターのマグカップを誰も座っていない席に移す。マグカップは昨年真奈美とお揃いで購入した。

なん、こい?」

「今日から、これがお前の携帯だ。これまで付き合ってきた同級生には、一人でも番号を教えてはならん」

 瑚子はスマホ以外の電話を知らない。正晃から所有を許可されたのは、昨年最初の中間テストで上位十位に修まった記念として、同級生の中では最も遅い時期だった。

 それまでは昼休みの間、LINEやフリマ・アプリで服やアクセサリーを購入する同級生の猫背を、購買で購入したチョコメロンパンを咀嚼そしゃくして見ていた。

 その分、寡黙な正晃から手渡された瞬間、瑚子は手あかの小さいスマホを天に掲げて喉が二つに裂けるほどの声を上げた。キャラクターの顔面と一体化したスリッパが転げ落ちるのを気に留めず階段を踏み荒らし、自室のドアを閉めながらLINEやフリマ・アプリを検索した。いつかLINEで連絡を取り合うことを約束したので、真奈美から操作方法は教わっていた。

 家族にも二度も見せたことのない、瑚子の一人八役劇―白雪姫と七人の小人―は部屋の電気を点けた途端、幕を閉じた。

 正晃があらかじめ安全フィルターを施していた。フリマ・アプリはもちろん、スマホのネット環境自体に制限がかかっている。瑚子は漢方薬よりも苦い涙を流し、自作のメール・アドレスで真奈美と連絡を取ることになった。

 一年かけて薄らいだ漢方薬は体内に留まり、巡り巡って脳に到達した。蘇った苦みは口を介さず瑚子を不快にした。

「一人もって、しかも守るとかなんよそれ! まーちゃんはうちの大事な親友とに! 十七歳にもなって、なしてお父さんにそこんまで管理されんばならんと!」

 瑚子はテーブルに両手の地震を落とす。正晃は取り上げていたマグ・カップを、果物を詰めた天然素材の籠の隣に置く。この後瑚子が椅子から飛び上がっても破損する心配はない。

親しく思うのは構わん。だが相手の気持ちが永遠に続かんことを忘れたらでけんぞ」

 チア道具のポンポンそのもののショート・ボブが重力に逆らう。正晃の言葉で瑚子は悪役の魔女まで務められるようになった。

「お父さんなんか好かん! 全然いっちょん好かんけんね!」

 瑚子はキャラクターの顔面を踏み、スリッパを履かずに階段を上がる。裸足で体重をかけたので、木材の階段に足裏の皮脂腺が忠実に再現されている。部屋のドアにかけているはずのネーム・プレートが正晃の視界に落ちると、リビングの外で控えていた友里子が入り口の隙間から身を差し込んだ。

「お父さん、思春期の女の子にあがん態度はあんまりですよ。今が一番何でも楽しか時期とに」

 四十歳の友里子は着座したままの正晃を見下ろす。涙袋の張った両目はいかソーメン二本分に圧縮されているが、白髪に混じったティッシュペーパー一枚分のペールオレンジは友里子の視界に映っている。

「どうにも、娘ってもんは気難しかな。しかし親として瑚子を……」

 正晃は自覚している後頭部に右手を置くが、頭皮から離れる気のない髪に安堵すらできない。

「友里子、お前にとって瑚子は本当の娘同然か?」

? 私の娘はあの子だけですよ。今も昔も変わらずね」

 正晃がは瑚子が登った階段を見上げる。大容量袋のいりこ一尾分開いた唇から掠れ声が漏れたので、友里子は故意に椅子で摩擦音を出す。

 友里子も椅子に座り、背筋と両肘を伸ばす。

「今だから言えるんですけどね。当時未婚で出産経験もなくて、最初は子連れの人ンとこの、後妻だなんて不安でしかなかったとですよ」

 正晃は俯き、座高の低い友里子の視界に後頭部が入る。正晃は十も若い友里子との再婚を決めかねていた時期があった。

「そいけど、二歳になったばかりの瑚子ちゃんを一目見たらそがんつまらんこと、一瞬で忘れてしもうたとですよ」

 閉じた瞼の裏に、砂場に靴跡を深く刻む瑚子が鮮明に浮かぶ。十五年経っても変わらない友里子の記憶の一つだ。

「同じ砂場で遊ぶ子には遠慮するとに、私には大声で笑って近寄ってくれた。それだけで私、この子の母親になりたい一心であなたとの再婚を受け入れたとです」

 友里子はリビングの入り口を視界の端に置く。その先の洗面所に、正晃と瑚子のコンタクト・レンズを保管してある。

「血の繋がりなんて関係なかです――なんて、なおのこと」

「お前には、本当に感謝している」

 友里子は立ち上がり、行き場を失ったネーム・プレートを拾う。ニスを施した木製のプレートを、瑚子の分身としてたんぽぽの綿毛をつまむように動きを最小限に抑える。

「お父さん、生姜の葛湯ができるまでに、お風呂入って部屋に隠れとってください。瑚子ちゃんが安心して喉も乾けんでしょう」

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