第5話 2019年9月初日―乾いた海を駆ける日
午前五時五分前、昨年引退したはずの金打音が瑚子の枕元で割れる。
わずか一年で定着した指のスライドは、瑚子の意識がなくとも迷いがない。
瑚子の世界は綿菓子の中に閉じ込められているはずだったが、秒ごとに圧力の増す音が綿菓子の粗い隙間を潜り抜ける。
音が体を曲げるたびに綿菓子の円形が歪み、そのはずみで瑚子の意識は綿菓子の外側へ押し出される。キルト生地の敷パッドで頬が擦れ、右半身が現実世界の境界線に触れる。
「んー……るさ、か」
親指で一の字を五回書いても音は止まない。両足で二つの円を二度描いても、キルト生地特有のビーズ一粒分のひし形格子は綿菓子より十倍ほどの強い触覚で刺激する。長崎県でも一年ごとに温暖化が急進しているので、一晩中扇風機を点けても素肌から噛み終えたガムの汗が剥がれない。
聴覚と触覚で不快感が極まり、瑚子は上半身を起こした。友里子の足音より先に瞼を開いたのは、中学の修学旅行初日以来だ。
「お父さんのばか」
二つ折りのガラケーを正晃に見立てて、瑚子は歯列を剥きだす。突起のボタンを押され、ガラケーは音が止まる代わりに全体に熱が広がる。貼らないタイプのホッカイロよりも高い熱は、五分間震えながら泣き叫んだ証だ。
ガラケーを枕元に投げ置き、瑚子は素足を引きずりカーテンをかき分ける。水泳は聖マリアンヌ女学園の夏季授業で嗜む程度だが、白に近い水色のカーテンが水しぶきそのものに見えるほどバタフライのフォームに近い。
「—―もう、路電で通学できんとかぁ」
長崎市を周遊する路面電車は、一度につき区間を問わず百三十円で乗車できる。さらに割安になる通学定期券は八月三十一日付で解約した。雨天の放課後、真奈美と
それどころか、この日から制服を着て外に出るのは、自宅からJR諫早駅までの往復のみ。横目に映るセーラー服には細身強調のラインが施され、これまで装着したことのない襟元のリボン型タイがハンガーにかけられている。
八月九日以降袖を通していない制服は、瑚子だけでなく友里子も見ていない。洗濯機に入れる前に正晃が視野に入らない場所に隠した。処分すれば友里子よりも先に、
ゴミ・ステーションを共有する主婦が目撃する。あくまで翌日十日に処分すれば、の場合だ。
毎年八月九日、長崎県内の小・中学校、高校は公私立関係なく登校日を設け、原爆の被害者に黙とうを捧げる。県内の教会でもミサが行われ、信仰を問わず住民にとって一年で最も慌ただしい三日のうちに入る。ゴミ一つに構うほどの邪念は芽生えない。
聖マリアンヌ女学園との別れの日、通年一時間に及ぶ中高等部合同黙とうミサが百年続くことを望んだ。学園生五年目にして初めて、体育館の掛け時計が壊れていると思い込んだ。
ミサ終盤の黙とうを終え、瑚子の胃時計で進んだのは、わずか十分だった。
実際はシスター校長による厳しい時間管理のもと、一秒も狂うことなく一時間で終了した。
翌日より三週間、親友の真奈美にさえ連絡を取っていない。正晃の口頭指示に比べ、瑚子自身の置かれた状況への悲観が千倍ほど強く、スマホを取り上げられた両手に影響が出た。
瑚子と真奈美の名前の間に数字の二を置いただけなので、メール・アドレスを忘れることはない。
正晃にはガラケーの電話帳機能を見せない。真奈美が外部受験で高等部に入学してからこれまで、瑚子の素顔を晒せなかった。罰としては十分の一ほど薄いが、とりあえず隔たりで正晃を圧し潰したかった。
プチプラ・ショップで購入したTシャツとショート・パンツのセットパジャマをカーペットの上に置き、瑚子は汗拭きシートを全身に滑らせる。シートの成分が渇いてから制服に袖を通したが、個包装の衣服にもれなく付属する厚紙ほどの硬い生地と人工の石鹸臭がにらみ合うのを感じた。本能の叫びを聞き流し、腰を左右に振る。共学校特有の膝が隠れるプリーツ・スカートに沿って、両手を降ろす。
「今度は太もも、目立たんね。あとはコンタクト・レンズ……毎朝毎朝こいだけが面倒臭かとさね」
友里子の掛け声に応え、瑚子は艶のあるカバンを手に階段を下りた。
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