第6話 2019年10月10日ー世界は秋空の如く

「村雨さん、この学校少し慣れた?」

「あ、チョウさん」

 一秒で三本見えるほどの雨の日、瑚子は帰宅前に女子トイレに寄った。

 気持ちに反して浮かれる毛先を摘み鏡をにらんでいると、背後から右肩に冷め始めた味噌汁に似た温もりを感じる。

 振り返ると、すべての髪を揃え伸ばした黒いポニー・テールの女子生徒が立っていた。クローゼットで息を潜めるS字フックが擬人化すると彼女になると、すれ違う男子生徒が日を跨がず囁く。瑚子がその理由を納得するほどのくびれを持つ。彼女が歩くたびに、腰までのストレート・ヘアがくびれに沿って跳ねる。瑚子が足を手に変えてでも欲しいものの一つだ。

「チョウさんのおかげで、校舎のこと、全部覚えられたよ」

「そ? なら良かけど」


 男子生徒と机を並べるのは、公立小学校の卒業式以来。当時の同級生は、教壇に並ぶ瑚子を見つめる二十人の方が父である正晃の体型と声に近い。

 友里子の家事にはほとんど口出しせず潰される寸前のほおづきと化しているが、村雨家の決定権を駆使するときは鉄鎧てつよろいに豹変する。

 わずかな隙間から加齢臭を放つ正晃と、尖った酸味臭を垂れ流す同学年男子とを重ね見て心に千本の針が生える。自己紹介が終わり、五年間ストレッチを欠かさなかった四肢が歩く電柱として瑚子の緊張を具現化した。

 指定された席に座る直前、女子生徒の一人が瑚子と視点が衝突した。

 太い眉尻が四十五度上がり絹糸の歯列を明かしたこと以外、彼女がしたことは何もなかった。それでも瑚子の針をすべて抜くには十分の笑顔だった。

 彼女こそチョウ、本名はちょう品妍びんいぇん。台湾人父と日本人母の間に生まれた張は、男子生徒をおさえクラス委員を務めていることからクラス・メイトからチョウと呼ばれている。

 転校初日より、チョウは瑚子の面倒を自ら引き受けた。

 奏真館そうしんかん高校が聖マリアンヌ女学園と同じくミッション・スクールであること。体育の授業では男女別に用意された更衣室を使用すること。階を超えての移動は階段のみであるため、スカート丈からはみ出ないアンダー・スパッツの着用が必須であること。

 女子校では決して意識しなかったことが含まれているため、瑚子は質問をせずチョウの意見をそのまま聞き入れた。

 瑚子が一か月間行動の供をチョウに限定したのは、的確なアドバイスだけが理由でなかった。彼女は一度たりとも聞かず、他のクラス・メイトの声をも遮ってくれた。

 中等部から通っていた女子校を去ったこと、わざわざ長崎市から通学を始めたこと、そして濁り縁のコンタクト・レンズが完全に隠しきれていないを。

 一度だけ、瑚子は言及の波を潜り抜けた後チョウに尋ねた。チョウの答えはただ一つ。

「だってそい、台湾籍の私が日本の、しかも九州のド田舎の学校に通っているのと同じじゃなか?」

 脳を貫通した瞬間、聖マリアンヌ女学園に通う真奈美とは異なった親近感が固めのグミとして手ごたえを感じた。


 その一週間後、現在に至る。

「そいでね、村雨さん、JRで通学やけん部活なんて考えとらんよね? ちょっと手伝ってほしかとけど」

「うん?」

「来月、諫早市のホールでチャリティー・コンサートばするとさ。売上金でどっかの貧しか国の子ども支援団体に寄付、なんていかにもミッション・スクールやろ?」

 チョウは色素の薄い唇をアヒルのくちばしに変えた。敬虔な善意にはまったく興味がない証だ。

「あ、前のところマリアンヌでも似たのあったよ」

かゆかよね。私なら職業訓練の学校ば作るとに! 要るモノがあれば、やけど」

 チョウは右手でコインをかたどり、瑚子の前歯が覗く唇にあてがう。

「さすがチョウさん、発想の凄かぁ」

 瑚子が噴き出すと、コインの形は宙に消えた。チョウは両手を花に変え、十枚の花びらを弾き飛ばした。声に出さなくても、学生の微々たる小遣い事情に二人は共感した。

「ま、そいはともかく。どういうわけか、毎年生徒会サマや各学級委員の連中だけではコンサートの準備が回らんらしかっさ。で、去年から帰宅部の生徒にも強制的に手伝わせることが決まってね。村雨さん、難しかことはなかけん手伝ってくれん? 帰りのJRも、私が間に合わせるようにするけん」

「強制じゃなくても、私にできるなら」

 瑚子は帰宅後、友里子と正晃に報告した。友里子は新しいやりがいを期待して喜び、正晃は規則であることを理由に頷いた。白髪が生え始めた眉間の皺は、カメムシの異臭に気付くときと同じだった。

 瑚子はあえて正晃の意図を読まなかった。友里子には及ばずとも、木に隠れて校庭を見る日課を絶つきっかけを求めていた。

 実際に、翌日の十一日から二日間ホールの設営に携わり、週末は完全にスポーツを見ずに済んだ。

 ――十三日の日曜日、瑚子の運命の歯車が加速することも知らずに。

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