第20話 凍花の息吹

「友里子と私は、これまで一度も子どもを作らんかった。そいでものあるとは、お前が聖母マリアか何かだからや?」

 瑚子はドア・ノブを掴もうとしていたが、右の人差し指の爪が掠れただけだった。

 二人の性に関しては、未成年の瑚子が踏み入ってはならないことを、言われなくても脳に刻んでいた。

 実父がそのような行為をするところを想像したくないのもあった。

 何より、正晃が友里子の性を決して軽く扱わないことは、初潮を迎えるより先に知っていた。

 瑚子は二人に、弟や妹をせがんだ記憶もない。

 まったく欲しくなかったわけではないが、村雨家は三人で成り立つ固有名詞。家族が増減すればすべての他人に異形として見られると思い込んでいた。

 実際は、身内の正晃が見えない壁を作っている。

 ――友里子の前で。

「ちがっ、私はそがん」

 正晃へ右手を伸ばしても、目が合うだけで指先が痙攣し前へ進めない。

 瑚子は両足のつま先を丸めた。全身で友里子を庇いたい思いを堪え、足の力を内部に留めている。

 この後どのような話が進んだとしても、瑚子が力づくでも解決できるような粗い問題ではないことを感じているから。

 聞き耳を立て、未熟な言葉で正晃に反論する材料を拾うことだけが、廊下で待機する理由だった。

「言い方ば変える。私はお前のどがん不満に気付けんかった?」

 ヒュッ! 瑚子は呑み込んだ息を両手で押さえた。

「あ……そ、の」

 友里子は吐息がS字フックになり、喉に引っ掛かっていた。

「瑚子に聞かれとぅなかとか? 私の中ではまだまだ子供だが、世間一般ではも分かる年頃だ。むしろこれも教育の一つだと思うとばってか?」

 瑚子がドアに隠れていたことは、二人は知っていた。とくに正晃は瑚子と直面して性教育できないため、反面教材を見せつけていた。

「毎朝……コンタクトば着ける後ろ姿を見るのが辛かった。二人とも、あんまり似とるもんけん」

「どういう意味や?」

 友里子の両肩が下がった。この瞬間で二十も老けて見えた。

「夏のニュースば見るまで、二人が裸眼を隠さんば理由がちっとも分らんかったとです。目の色だけで人間性の変わるもんでもなかろうに、って今でも思っとります。でもそがんことより辛かったのは、私が一生、完全な家族になれんと心に刷り込まれ続けることです」

「なしてや? お前がおらんば家の回らんことも、瑚子がお前に懐いとることも分かっとるやろう」

 友里子の髪が左右に広がった。正晃の言葉を否定する。

「足らんとです。私が妻として、母として守るには知らんことが多すぎます。瑚子ちゃんにも教えんで、あなたは一体何ば守りたかとですか?」

 鼻に密着する眼鏡の一部が揺れる。消しゴムのカスより細かいネジが緩んでいるわけではない。

 瑚子は眼鏡越しに裸眼を握り潰したかった。友里子の不安を煽っていたのは、正晃だけではなかった。

 チョウに嫌われたことからでも話題を切り出すべきだったと、後悔しても遅い。チョウがべらべら喋らない限り、学校で裸眼を暴かれる可能性はほぼゼロだ。

 一方でこの家には、瑚子が二才のときから友里子が住んでいる。日本人でも外国人でも、そもそも人間ではない裸眼は隠しようがない。

 瑚子が恐れ避けていたことが、友里子の口から出てしまった。

「前の……亡くなった奥さんでないとでなからんば、あの子の本当の母親になれんとですか? 血縁は仕方がないしょんなかとしても、心だけでも」

「お前はもう、妻でも母親でもない。お前がこの家に居ないとおらんばと言ったことは撤回する。いつどこで、相手が誰かは知る必要のなかばってか、裏切りが体に出とる以上、出て行ってもらう。必要であればこちらから実家へ、お前の荷物を送る」

 正晃は友里子の腹部を指差した。

 自分トビヒぞくの保身と友里子の精神面に気を取られていた。瑚子はこの瞬間で友里子の過ちに気付いた。


 友里子は不貞を犯し、その証が胎内に宿っている。


「私は私なりに瑚子を守る。あの子ももう身の回りのことならできる歳だ。お前からその子を奪うつもりのなかけん、明日の始発で出られるようにごと準備ばしたら良か」

 右手で眼鏡を、左手でドアノブを、瑚子は押しのけた。腕力は人間の女子と同等なので、友里子に手間をかけることはない。

「お父さん!」

 瑚子は友里子の前に立ち、両手を広げて正晃と対面した。

「瑚子、どきなさいどかんね。眼鏡はどがんした」

「どかん! お父さんこそ、ママば裏切っとるたい」

 初めて、コンタクトを着けた白目がもえぎ色に侵食されて見えた。正晃の激昂が瑚子の裸眼をも貫こうとしたが、下唇を噛み内部を巡る熱をも堪えた。

「私がいつ裏切った?」

「いつもたい! ママが陸上部のママ友ができんかったと、お父さん知ろうともせんかったたい」

 ローベッドを置く畳から、瑚子の足跡に沿って濃緑の芽が出る。

「瑚子ちゃん……」

 濃茶の目が揺れる。タイツを履いた足で畳が擦れ、正晃は友里子が足元の変化に気付いたことを見逃さなかった。

「瑚子、落ち着きなさいおちつかんね。今はどころじゃなかろう」

「うち、本当はもっと早くに陸上部ば辞めても良かった! 別に好かんわけでもなかけん、走るくらいならいつでもどこでもできる。そいばってか、ママの陰口を見逃してでも部活ば続けるほどの価値なんか無かと! ママがカメラば持って喜んでくれるけん、絹代ママも年賀状で喜んでくれるけん、陸上がうちにできるたった一つのことやったと!」

 瑚子は友里子の頭部を薄い胸元に引き寄せた。

「家族が家ン中に居るとにこまか変化ば見付けきらんで、偉そうなコトば言わないでぬかさんで!」

 瑚子の胸元が、冬の校庭の水道水に変わった。服が突っ張らないのは、友里子が自身の唇を噛んでいるから。瞼をジッパーに変えても、洪水は断絶できていなかった。

「お前は黙っ」

「今夜はママと寝る! お父さんは玄関で寝なよねらんね!」

 正晃の鼻腔が震え、舌を這っていた言葉を噛み潰した。

「勝手にしろ。最後やけん、納得のいくまで話したら良か」

 正晃がドアを閉めると、自身の足踏みと同じ音量で金具が鳴った。

 廊下に放った眼鏡をどちらが拾うのかを気にしなかった。翌朝以降の生活に慣れるため、眼科の検査と称して奏真館を欠席することも可能だ。

「瑚子ちゃん、私ちゃんとしたママになれんで、本当にごめんね」

 友里子は両脇に手を挿し、瑚子から顔面を剥した。

「『ちゃんと』って? ママ、他に比べんばならん人のると?」

「瑚子ちゃん?」

 友里子が見上げると、両目から木刀を抜く直前の圧がわずか一分で消えていた。瑚子は幼稚園児がコウノトリの仕事を訊くのと同じ柔らかい声で言った。

「瑚子のママは今ここにるママ一人ばい。いつかあの頑固親父の目ば盗んで、会いに来るけん。ママと、瑚子の弟か妹に」

「こ、ちゃん。あぃ、が、と。だ……き」

「うん、瑚子もママが世界一大好き。いつもありがとう」

 二人は肩の高さを合わせ、服を背中に編み込むほど両腕に力を入れた。

「瑚子ちゃん、良か匂いのする……ハウステンボスの花畑のごたる」

「ママ、ファンタジーの本ば読まないじゃんよまんたい

 瑚子は友里子の嗅覚が幻だと笑った。


 二〇一九年十二月二十五日、午前六時。

 友里子と同じベッドで眠った瑚子は、本来正晃が横たわる位置で寝息を立てていた。

「起こさんで良かったとか」

「はい、瑚子ちゃんの母親でいられただけで、私は十分幸せでしたから」

 玄関に立つ正晃の吐息は、ガラス窓と同じ白濁していた。

 コートにマフラーを、黒のタイツに同色のレッグ・ウォーマーを重ね、友里子の目は博多明太子色に腫れあがっていた。

「実家には連絡したとか?」

「ええ、ことの詳細は着いてから話すことになっとりますが」

 友里子は玄関に外の空気を入れた。ドアを開ける左手には指輪が外されていた。

「ああ、でも

「何だ?」

 正晃に背中を見せたまま、友里子の声は途切れなかった。

「最後に、どがんしても耳に入れてもらわんばことのあるとです」

「瑚子に必要なことか?」

 肩にかかった友里子の髪が降りた。二人の間での話題は、最後の日まで一つと決まっていた。

「谷崎真奈美ちゃんに会ったことありますか? 聖マリアンヌ女学園の陸上部員で、瑚子ちゃんと一番仲の良かった子です」

 友里子が見ないと分かっていても、正晃は首を左右に振った。友里子が撮影した写真に写っていたかもしれないが、正晃が進んで名前を訊いたことはなかった。

「その子が、どがんしたとか? 今、瑚子に連絡取らせとらんぞ」

「真奈美ちゃん、週に一回わざわざ部活ば休んで、うちに来とるとです。瑚子ちゃんのことが心配で、練習にぜんぜんいっちょん身の入らんって」

 正晃の喉が掃除機になりかけたが、友里子は言葉に変えさせなかった。

「正直、ほっとしてます。もう、謝ってまで帰さんで良かけん」

 でも、と友里子は振り向いた。その瞬間が、正晃の見納めだった。


「本当に瑚子ちゃんを守りたかなら、瑚子ちゃんの優しい心ば殺したらでけんですよ」

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